さきくさ

□8
1ページ/1ページ

ひわ、ひわ、ひわ、
呪文のように繰り返し呼ぶ名は、ただただ心臓をがんじがらめにして締め付けた。見据える先が霞んでいてよく見えない。でも前に進まないと。あの子を探さないと。きっと今ごろ一人で震えているかもしれない。恐がっているかもしれない。早く、速く、はやく。
いかないと。はやくいかないと。まってるから。きっとまっているだろうから。でもからだがうごかない。
体中が痛い。息が苦しい。痛い。苦しい。痛い。助けて。叫びたい。もしそう叫ぶことができたらどれだけ良かっただろう。
でも私は叫ばない。

叫んでしまえば、彼らに捕まってしまうから。



***


「昨日の夜はハンバーグだったから…今日は鯖の味噌煮なんてどうですかね?」

遠くに見える夕焼けを眺めて、少しだけ視線を落とした。隣を歩く少年は私の視線に気づき、チラリと顔を上げる。夕焼けに温かい橙に染まった金糸の髪が綺麗だ。

「別に何でもいいよ」
「そうですかー。お魚さん買ってしまいましたし、決定ですね」
「………」

一人頷いていれば、彼はぼんやりとした様子で前を見た。隣を歩いている彼を見るたびに本当に、すごく進歩したなあ。なんて。

ほんの数十分前だ。
いつも通り買い物に行ってきますねと彼に告げると、彼は不意に自分も行くと言い出した。思わず驚いて言葉を忘れていれば、不機嫌そうに睨まれる。それに慌てて行きましょうと一言答えた。驚きながらも何だか懐いてくれたような嬉しさに表情を綻ばせて、二人一緒に買い物に出た。

「小鳥さんは魚お好きですか?」
「…嫌いじゃない」
「じゃあ今夜は鯖の味噌煮で」
「…美味い、の?それ…」
「食べたことありませんか?」
「だから聞いてるんだけど」
「あはは、私は好きですよ。あ、もし一口食べてダメでしたらまだ他にも材料買ったので何か作りますから」
「あんたって本当に無駄なことが好きだよね」
「どういたしまして」
「……意味わかんない」

ふいっと顔をそらす彼に小さく笑みを零す。夕焼けに染まる帰路が妙に温かいもの思えた。無性に懐かしいような寂しいような感情が込み上げてきて、右手に持ったスーパーの袋を握る手に力を入れる。ふと吹き抜けるひんやりした風に、つい身を縮めた。

「さむ、」
「ですね、手が冷えますよね。繋ぎます?」
「ばっ!バカじゃないの!?」
「顔真っ赤」
「っうるさいよバカ!あんた小学生!?」
「大学生ですよ」
「っ!!」

キッとこちらを睨んで目をそらす。いろいろと心配なことはあるけど、こういう年相応の仕草を見ると無意識に安心してしまう。たとえそれが自己満足でも、私は私なりにこの子の力になりたいと思うのだ。


「あ、自販機。小鳥さん、せっかくですし何か温かいもの買って飲みましょう?」
「………」

無言の彼をズルズルと引きずりながら自販機の前に立ち、百円玉と十円玉を入れてカフェオレとミルクティーを買った。そして彼にミルクティーを渡す。無言でそれを受け取る彼に苦笑を零して、ちょうどすぐそばにある公園のブランコに二人で腰を下ろした。握り締めた缶から伝わる温かさが、じんわりと冷えた指先を溶かしていく。少しの間その温かさを感じた後に、蓋を開けて口に含んだ。

「はあー…温まりますね」
「単純だね。」
「いいんですよ、単純な方が物事が楽になりますから」
「本当、脳みそあるの?」
「あははは、」

隣で同じようにミルクティーを飲む彼に苦笑で返した。夕陽に照らされた公園の風景を眺めながら、ブランコを小さく漕ぐ。キイキイと乾いた金属音が鼓膜を揺する。
するとふと吹き抜ける冷たい風。ゾクリと背筋を駆け抜ける悪寒に、何故か胸中がざわついた。

カラン…、

「!小鳥さん?」

不意に。
彼が手に持っていたミルクティーが地面に落ちた。まだ中身が残っていたそれからは次々とミルクティーが溢れ出し、地面のシミを肥大させていく。じわりじわりと足元が滲んでいく。
同時に胸中のざわつきが得体の知れない不安に変わった。

「小鳥さん?どうしたんですか?」

何故何も答えない。無言の彼に心臓が飛び跳ねる。肥大していく不安。
鼓動が早くなっていく。マズい、危ない、危険だ。
何が、とはわからなかった。けど本能が警鐘を打ち鳴らす。彼はただ呆然と宙を見据えていた。そしてその瞳が徐々に見開いていく。
早くここから離れよう。家に帰らないと。でないと危ない。良くない。

中身が残っていることなど忘れて缶を放り投げた。そして彼を連れてこの場を去ろうとブランコから立ち上がる。しかし彼は動かない。腕を軽く引いてみるが、でも動かずただ呆然と宙を見ていた。

「小鳥さんどうしたんですか?帰りましょう?」

マズいマズいマズい。
早くしないと、早くしないと。
ドクドクと強く打ち鳴らされる心臓。焦りから彼をやや強引に立ち上がらせた。

同時に彼の瞳があるものを捉え、焦点を定める。

凍えるように冷たい風が心臓を絡め取った。途端に香る粘着く赤い匂い。思わず息を止める。背後に感じた人の気配。彼の瞳はそれに向けられていた。

「……っ」

ぎこちない動作で後ろを振り向く。誰か、立っている。真っ赤な夕陽に照らされた空間に暗い影を纏って。緩く波打つ長い髪は夕陽に照らされ赤く輝き、不気味とさえ思えた。痩身だが背は高く、男性のように見える。怖気が背を這い上がる。息を呑んだ。その男性の右手に、夕陽を受けてギラギラと鋭い輝きを放つものが握られていたから。


「びゃく、ろく…っ」
「!?」


少年が男性を見て呟いた。
男性の長い髪の間から金色の瞳が覗く。濁ったその色は、正気を完全に失っていた。


そしてその右手に持った刃物が、こちらに向けられた。




**********

白緑さん登場!
もういろいろとごめんなさい。この真相は次回で!

20091017

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ