短編

□淡くて
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気付いたら、薄暗い廊下に一人で立っていた。

「………?」

壁も床も真っ黒で、照明も足元を辛うじて照らす程度。自分の手すらよく見えない。どうしてこんなところにいるんだっけ、必死に考えを巡らせるが、頭の中に霧がかかったみたいで上手く思い出せない。

(早く、帰らなきゃ…)

帰らなきゃ、お母さんもお姉ちゃん達も、お手伝いさんも心配する。それだけじゃない。きっと自分が帰らなかったら…帰らなかったら、お父さんがお母さんを怒る。またお母さんが叩かれるかもしれない。手を振り上げるたびに揺れる炎を思い出して、背筋が寒くなる。

出口も分からず、どっちに進めばいいのかも分からない。不安で仕方なくて、涙が込み上げてきた。ぐっと堪えて、恐る恐る足を踏み出そうとしたところで、

「−−−ねえ!」
「っ!!」

ぱし、と右手を掴まれた。

飛び上がって、ゆっくりと振り返る。そこには1人の女の子がいた。自分の左側より少し暗い、赤茶色の目と髪。たぶん同い年くらいだ。その子はこちらの右手を掴んだまま、丸い目をぱちくりさせて首を傾げる。

「泣いてたの?」
「な、泣いてない」

慌てて、服の袖でごしごしと目を擦る。ごまかせたかは分からないが、女の子は聞いたくせに興味なさげに「ふーん」とだけ答えた。かと思えば、ずいっと顔を寄せてくる。

「キミも迷子?」
「え?」
「私もなんだ。お母さんと来たんだけどさー、お母さん、チンアナゴの水槽からぜんっぜん動かないから、飽きちゃって。1人で回ってたの。そしたら誰もいないとこまで来ちゃってね、やばいよぉ」

こちらが口を挟む隙が無い。チンアナゴってなんだろう。ぺらぺらと喋る女の子は、手を繋いだまま歩き出した。流されるがまま、蹴躓きそうになりながら女の子についていく。暗い廊下は、もうそんなに怖くなかった。

だんだん周りが明るくなってきて、女の子の頭の奥から不意に視界が開けた。眩しいというほどではない、淡い水色の光が空間を包む。

「わあ…!!」

思わずため息が漏れた。右も左も、天井すらも、ゆらゆらと揺れる水に囲まれている。ガラスの向こうで、色とりどりの魚が泳ぐ。テレビの中でしか見たことがない光景だったそれは、

「水族館…?」
「え?そうだよ、水族館だよ」

ぐいぐいこちらを引っ張っていた女の子が、手を離して振り返った。よく見ると自分よりほんの少し背が高い。

「私、猫堂ユキ。迷子くんの名前は?」
「と、とどろき、焦凍…」
「ととどろき?変わった名字だね」
「違う、轟…」
「ふぅん。分かった、焦凍くんでいい?私ユキでいいよ」

気の強そうな瞳がニッと細められる。名字を訂正したのに名前で呼ばれるらしい。お喋りだし、マイペースな子だと思った。ユキと名乗った女の子は「どうしよっか」と辺りを見回す。

「焦凍くん、ここ来たことある?」
「…無い。水族館、初めて…」
「そっかー。私もここ来るの初めてだからよく分かんないんだ」

しばらく腕を組んで見せ、女の子はぽんと手を打った。

「じっとしててもしゃーないし、歩こっか!」
「え…でもじっとしてた方が…誰か探しに来てくれるかもしれないよ」
「待ってるより自分で探しに行った方が早いじゃん」

再び手を掴んだ女の子−−−ユキちゃんは、肩越しにニカッと笑って、空いた手でピースサインを作った。

「焦凍くん、水族館初めてなんでしょ。お母さん探しながら一緒に回ろ!その方が楽しいし、早く見つかるかもしれないし、一発二鳥!」

なんか違う気がする。しかし訂正する間もなく、ユキちゃんは手を繋いだまま「れっつご〜」と歩き出してしまった。また流されるがまま、あとを着いていくことになってしまう。

なんで自分が水族館にいるのか、どうして誰もいないのか、早く帰らなきゃ、そんな疑問や不安とは裏腹に、心の奥の方からむず痒い感情が湧き上がってくるのが分かった。そうだ、そういえば水族館、一度お母さんに行ってみたいと言ったことがある。でも休みの日はお父さんと修行ばかりで、お母さんはお父さんにお願いしてくれたけどダメだった。その時からずっと、行ってみたいと思ってたんだ。

(…ちょっとだけ)

ちょっとだけ、この子と一緒に、水族館を見てみたい。殆ど引き摺られるみたいだった足に力を込めて、今度はちゃんと歩き出した。



◇ ◇ ◇



大きな水槽の中で、銀色の魚が束みたいになって泳いでいく。まるで一つの魚のふりをしているみたいだ。その奥を、大きな翼と尻尾のついた魚が、ゆったりと横切っていく。

「すごい…」
「イワシとぉ、エイだって」
「イワシ、好きだ。美味しい」
「え、私あんまり好きじゃない。苦くない?」
「美味しいよ。あっちのは食べられるのかな…」
「あんなおっきいの、1人じゃ食べきれないよ!」

けらけら笑って、隣の水槽に進む。小さい水槽がいくつも壁に埋め込まれていて、それぞれにカラフルな魚がいた。

「綺麗…」
「あっ、これ知ってる?ニモだよ、ニモ」
「ニモ?知らない」
「面白いよ、映画!あっタツノオトシゴだぁ」
「…こいつ、立ってる…」
「姿勢がいいね、えらい魚だ」

タツノオトシゴ、本物を初めて見た。こんなに小さいんだ。ここは熱帯魚のコーナーらしく、可愛らしい魚を見るたびに可愛い、小さいと言い合いながら水槽を進んでいく。

「あっねぇクラゲ!クラゲがいる!」
「透明で綺麗…」
「こいつ毒があるんだって」
「こんなに綺麗なのに?」

ピンク色のライトに照らされたクラゲが、ふわりと傘を広げる。説明書きを読み上げるユキちゃんが、悪い顔で「薔薇にも棘があるでしょ」と笑った。

次行こう!と手を引かれて、慌てて後を着いていく。さっき「一人で歩けるよ」と言ったのだが、「男女で水族館に来たら手を繋がなきゃいけないんだよ」と言われてしまったのだ。水族館にはそんなルールがあるんだと初めて知った。手を繋いだままやってきた水槽では、やけに偉そうな感じの魚がいる。

「うわっ、すごい、髭が長い…」
「あっははは!ほんとだ!こいつ長老って呼ぼう」
「ちゃんと名前あるよ。レッドテールキャットフィッシュだって」
「長い、長老でいい」

岩陰でじっと動かないその魚を、ユキちゃんは勝手に改名してしまった。多分良くないけど、面白くて笑ってしまった。

「あ、カニだ!」
「カニも美味しいから好きだ…」
「焦凍くん味の感想ばっかじゃん」
「だって…わっ!」
「あはは、食うなって言ってるよ」

水槽を間近で眺めていたら、カニがぐわりと鋏を振り上げた。びっくりして飛び退くと、ユキちゃんが「怒られてやんの」と笑う。ちょっと意地悪で、でも面白くて、ユキちゃんと回る水族館はとても楽しい。いつの間にか時間を忘れて、水槽の間を縫って走り回っていた。

そろそろ足が重くなってきたころ、たどり着いた次の水槽は、大きいのに何もいなかった。殺風景な水槽は奥に行くにつれて深緑色に沈んでいくようで、なんとなく心がザワザワする。怖くなって「行こう」と繋いだままの手を引いたが、「待って」とユキちゃんが引き留めた。振り返って、ユキちゃんの視線の先のを辿ったところで、ひゅるんと何かが翻る。

「うわあ〜!」

2人揃って歓声を上げる。そこにいたのは2頭のイルカだった。素早く目の前を横切ったかと思えば、こちらを見て挨拶するみたいにくるりと一回転。そのままダンスするように、水槽のあちこちを泳いで回る。

「すごいね!」
「うん、すごい!」

手を叩いて飛び跳ねて、イルカのダンスを見守る。ユキちゃんが本当に楽しそうに笑っていて、ふと水槽に映る自分の顔を見ると、同じような顔をしていた。

イルカは最後にまたお礼をするみたいに一回転して、どこかに去っていった。静かになった空間に、名残惜しさが残る。なんとなく、水槽の前のベンチに揃って腰を下ろした。

「…結構歩いたのに、誰もいないね」
「…うん」

静かな空間に、2人分の声が反響する。

「そういえば、焦凍くん誰と来たの?」
「…分かんない」
「え」
「気付いたら、ここにいたから…分かんない」

口にすると、途端に不安や恐怖がぶり返してきてしまった。さっきまであんなに楽しかった気持ちが、しおしおと萎んでいく。

体の右側に突き刺さる視線も落ち着かない。変な奴だと思われただろうか。お母さんが見つかったら、この子は自分を置いて行ってしまうだろうか。お姉ちゃんとお兄ちゃん達はいつも一緒に遊んでるけど、−−−やっぱり自分は1人になってしまうのだろうか。

「焦凍くん」
「!」

ベンチに置かれたままの手が、ぎゅっと握り込まれた。顔を上げると、ユキちゃんが力強く笑ってこちらを見ている。

「だいじょーぶだよ」
「え…」
「私がね、セキニンを持って、お家まで送ったげる。だから泣かなくてだいじょぶ!」

なんだかドギマギして、泣きそうになっていたことを悟られたのも恥ずかしくて、咄嗟に視線を逸らしてしまった。そんな自分を置いて、ユキちゃんが握った手をぶんぶん揺らす。

「おうちの人、きっと心配してるよね」
「……」
「うちのお母さんもねー、料理ヘタだし大雑把だし結構抜けてるとこあるんだけど、私のことチョー好きだから心配してると思う」
「…チョー好き」

言われた言葉に馴染みがなくて、鸚鵡返しで呟く。お母さんはどうだろうか。自分は好かれているのだろうか。分からないけど、自分のせいでお父さんに叩かれて、ごめんね焦凍って言う時のお母さんは、いつも辛そうだ。そんな自分を、お母さんは心配してくれるのだろうか。

「…帰らない方が、いいかもしれない…」
「えっ、なんで」
「お母さん、僕のこと好きじゃないかも…」

言葉にするとすごく悲しくなってしまった。お母さんに好かれてなかったら、自分はなんのために家にいるんだろう。辛い訓練を頑張ってもお父さんは褒めてくれたことがないし、褒められない自分なんかお母さんはいらないんじゃないだろうか。

ぐるぐる考えているうちに本格的に泣きそうになってきた。顔を見られたくなくて、体をひねってユキちゃんに背を向けた。恥ずかしい。自分があんまりにも不安定で、ここにいていいよなんて誰にも言ってもらえなくて、寂しいと伝える相手もいない。

背中を丸めて、何かから逃げるように小さくなろうとした時−−−背中にふわりと温かいものがあたった。

「私は焦凍くんすきだよ」
「え」

とっさに首だけで振り返る。すごく近いところにユキちゃんの顔があって、拗ねたように口を尖らせている。

「焦凍くん面白いし、イケメンじゃん。将来有望だよ」
「いけめん…?」
「うん。だから私は焦凍くんすきだよ」

そう繰り返して、ユキちゃんはぎゅっと首にしがみついてきた。女の子に抱きつかれたのなんて初めてだ。心臓が急にドクドクと鳴り始めて、さっきまでの恐怖心や不安がひょーいと脇に追いやられる。ばれないように深呼吸していたら、耳元で静かにユキちゃんが話し始めた。

「親が何考えてるかって、言ってくれなきゃ分かんないよね」
「…うん」
「私もお父さんに好かれてるか分かんないもん」
「ほんと?」
「ほんと。でも他に好きって言ってくれる人がいたら平気」

パッと体を離したユキちゃんが、肩を掴んでむりやり前を向かせた。そして、ピースサインを目の前に突きつける。

「焦凍くんも、これで平気?」

カラッと笑ったユキちゃんの大きな瞳に、水が反射してきらりと瞬いた。

不安は不安のまま、でも少しだけ気が楽になった気がした。こくりと頷くと、ユキちゃんも満足げに頷く。

「友達に自慢していいよ。私とデートして、告白されたって」
「デート…?これデートなの?」
「そうだよ!水族館を男女で回るのはデートだよ」
「そっか…そうなんだ」

気づいたら立っていた水族館で、初めて出会った女の子と手を繋いでデートして、色んな魚を見て、楽しくて仕方なくて、怖かったのに怖くなくなった。今日はいろんなことがあって、不思議な日だ。ユキちゃんの笑顔を見ていると不思議と心が浮き上がって、頬が緩んだ。

ユキちゃんが「じゃあ、そろそろ行こっか!」と再び手を引いた。ベンチから飛び降りて、駆け出す彼女を慌てて追いかける。

「行くって、どこに」
「あれ!」

ユキちゃんが指さしたのは、真っ暗で何も見えない水槽。なんの魚も泳いでいない。深く深く沈んだ先に、ブラックホールでもあるみたいに目が吸い寄せられる。

「あれ?怖いよ、なにあれ、何がいるか分かんない」
「大丈夫!一緒に行くから!」

手を引くユキちゃんが、肩越しに振り返って笑う。

「一緒にいるから、だいじょーぶ!」

そう言われたら本当に大丈夫な気がしてきた。ユキちゃんは足が速かった。置いていかれないように必死に足を動かす。少し先を走るユキちゃんの手が、真っ暗な水槽に触れる。

すると、ガラスであるはずのそこがたぷんと音を立てて沈み込んだ。
襲ってくる恐怖心を、大丈夫だという言葉で蓋をして、自分を奮い立たせる。

ユキちゃんと一緒にその深くて暗い水の中に飛び込んで、







「うおっ」

目が覚めた。

淡くて


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