短編

□3
1ページ/1ページ



チクタクという時計の秒針。
遠くに聞こえる波の音。
すぐ背後の息遣い。

(……クソ)

目を開くとすぐそばに壁があった。なんだか逃げ場を奪われた気分で、壁側をぶんどった事を少し後悔する。…逃げ場ってなんだ、なんで俺が逃げんといかんのだ。

静かに身を起こすと、電気を全て落としたはずの部屋の中がやけによく見えた。すぐに、カーテンの隙間から差し込む月明かりのせいだと気付く。ベッドの反対側、落ちるか落ちないかのチキンレースでもしているのかというくらいギリギリの端で、轟がこちらに背を向けて眠っている。その手前、連結したベッドの真ん中で、猫堂が静かに寝息を立てていた。

不意に、猫堂がこちらに向けて寝返りを打とうとした。咄嗟に手を伸ばして止めようとして、細い肩に触れる前に、ハッとして思いとどまる。

(何しとんだ俺は…)

流石に、今触るのはなんかマズい気がする。こいつの寝相が最悪で、これ以上こっちに転がってくるようなら容赦無く蹴り飛ばせばいい。そう決めて、枕元の水をひっ掴む。

なんとなく寝つけないのはあり得ないこの状況のせいだろうが、そんなことに揺さぶられている自分にも腹が立った。意識してるみてーじゃねぇか、クソ。そう思うと、猫堂の方を極力見ないようにしている事実にも腹が立ってきて、改めて左隣の女を見下ろす。赤銅色の長い髪が、枕から馬鹿みたいなTシャツへと流れている。まつ毛の影が、弱い月明かりのもとでも頬に影を落としていた。……なげぇな。

(別に…初めてじゃねぇし)

寝顔を見るのは初めてじゃない。夏休みのあの夜、自分のベッドの上で泣いていた女が突然息絶えたように静かになって、呼吸困難にでもなったのかと様子を見に歩み寄ったのだ。Tシャツに半分顔を埋めて、今と同じように寝息を立てていたこいつのまつ毛には、涙の粒が乗っていた。

以来、コイツは頑なに救けられた≠ニ言い張る。そこまでの恩義を感じられるのは本意じゃなかった。だってあの言葉の半分は、コイツを通して自分に吐いた言葉だったから。そんな後ろめたさも情けなさも捨て置いて「信じている」と言い放ったコイツの目は、予想外に力強くて、奮い立ったのだ。先生が言ってたように、見違えた。……変えたのが、俺なのか。

「…そんなに効いたかよ」

思わず声が漏れていた。薄い瞼の皮膚は月明かりの下だと青白く見えて、その中の赤が無性に気になる。

その時突然、奥でむくりと轟が起き上がった。轟がこちらを振り返って、目を見開いて、そのまま視線が下に落ちる。釣られて視線を落として−−−猫堂の頬まであと数ミリといったところまで伸びた、自分の手に気づいた。

「………」
「………」
「……ばく、」
「黙っとけ…!不可抗力だ…!」

最大限に声を潜めて叫ぶ。何が不可抗力なのかは自分でも分からなかったが、轟は眉を顰めたまま「駄目だぞ」とか抜かしやがった。何がだ。

「寝てる女子と近すぎると、寝込み襲おうとしてると思われる」
「なんっの話だ!」
「前に相澤先生に言われた。つーか声でけぇよ」
「テメェがふざけた戯言抜かすからだろが…!つーかなんだテメェは前科でもあんのか!」
「……」

轟は途端に明後日の方を向いて黙った。まさかとは思うがガチで前科持ちなのだろうか。誤魔化すように轟が再び口を開く。

「眠れねぇのか」
「うるせぇ、目ェ覚めただけだわ…」
「俺もだ。…こいつよく爆睡できるな」

轟がちらりと猫堂を見て、すぐに視線をそらした。そらしたまま、胸の下あたりまで落ちていた布団を引っ張り上げる。

「こいつの神経が図太いのは今に始まったこっちゃねぇだろ」
「そうか?肝が据わってるなとは思うが…気遣い屋だろ」
「あ?どこがだよ」
「他人が何考えてるかばっかり、考えてる」

再び轟の視線が猫堂に向けられて、今度はしっかりとそれを捉えたのが分かった。その目に、台詞に、むず痒いような腹立たしいような妙な感情が湧き上がる。

それと同時に、ある疑問が浮かんだ。轟は、猫堂の事をどこまで知っている?猫堂本人が喋らなくても、本人以外から情報を得る機会なんかごまんとある。

「…オイ」
「ん?」
「テメェ、こいつの…」
「んぅ」
「!!」

思わずびくりと身を引く。向かい側で、鏡みたいに轟も全く同じモーションをとった。猫堂が僅かに身じろぎして、首だけ轟の方に傾けた。

白いうなじと、歪んだ襟ぐりから覗いた鎖骨が、月明かりに反射する。

「……なんでもねェわ」
「……そうか」

お互いそれだけ言って、そそくさと布団に潜り込んだ。

(んなこと聞いてどうすんだ…)

というか、クラスメイトの寝顔見下ろしながら何をやっとんだ。自分で自分をぶん殴りたい衝動をなんとか押し殺す。猫堂のトラウマを轟が知っていたとして、だからなんだというのだ。猫堂と轟はまぁ親しい部類に見えるし、この女が何かを吐き出す先が自分以外にもあるなら、それはそれでいい。

なのにこんなクソみたいな気分になるのは、自分が猫堂にとって他より少しだけ、ほんの少しだけ違う立ち位置にいると知っているからだ。笑えないエゴだ。救けたのは俺なんだろうが、なんて。

−−−爆豪、好きだよ。

(んっっで、今、思い出すんじゃ…!)

再び布団をかぶって、聞こえてくる寝息をなんとか意識から追い払う。こういう時はたぶん素数だ、元素周期表か古語活用表でもいい。とにかく別の事を考えるに限る。

再び、秒針と波の音だけが空間を支配する。数え始めた素数がそろそろ三桁に突入しようというところで、漸く眠気が襲ってきた。

目を閉じて、沈んでいく意識に身を委ねて、

「爆豪おきてる?」

耳に吹きかけられた息遣いで、意識は引き上げられた。

反射的に飛び起きて振り返ってしまった。自分の背中のすぐ後ろで、髪をあっちこっちに跳ねさせたままの猫堂がぺたんと座り込んでいた。その人差し指がすっと口元にやってきて、ニヤリとへらりと間くらいの顔で笑う。

「しー」
「んっ…だよ」
「よかった、起きてた」
「寝とったわボケ」

息に混ぜるような音量で悪態をつくと「ごめんて、轟は声かけても起きなかったんだよ」と猫堂が背後を指差す。その先を辿ると、相変わらずギリギリの端で背を向けた轟の肩が、僅かに上下していた。お前も大概図太いなオイ。

「んだってんだよ…」
「こっち、きてきて」

猫堂が浴衣の袖を引いて、自分が寝ていた場所あたりまで誘ってきた。いやこいつマジで何考えてんだとドン引いていると、猫堂はカーテンの端を僅かに摘んでこちらを振り返る。

「外がやばい」
「…あ?」
「ほら、早くって」

ベッドの頭に位置していた、大きな出窓。そのカーテンを摘んで、逆の手で急かすように手招きしてくる。葛藤すること数秒、ここで断るのも負けたような気がして、猫堂の隣まで体を引きずっていく。

2人で枕元に並んだところで、猫堂が「てってれ〜」と馬鹿っぽい効果音と共に、カーテンを引いた。

「……」
「ね、すごくない?やばくない?」
「…テメェの語彙力がやべぇわ」

悪態をついて見せたが、猫堂の言っている意味は理解した。

台風一過、満天の星空。墨のような海に、それが映り込んでいる。こちら側の窓が真っ暗だったのは、すぐ外が海だったからだろう。傾いた満月が水平線をぼんやりと照らしていて、まるで空が鏡に映っているように見えた。

「さっき目ぇ覚めた時に気づいてさ、これは共有しとかないと勿体無いと思って。ね、ナイスでしょ」

こちらを見て笑った猫堂の赤い目にも、星が映った。片足に体重をかけるとベッドに沈み込んで、身体ごと猫堂の方に少し傾く。浴衣の袖をまくっていた腕と、馬鹿みたいなTシャツから伸びる腕が触れる距離。さっきまで青白い瞼に覆われていたそれが、すぐそばで、光ってチカチカして見えた。

さっきは魚の名前で狼狽えた癖に、今この時はこんなに近くで屈託なく笑っている。まつ毛に光るのは、涙ではなく、星の明かり。

あぁ、本当に、ウゼェにも程がある。
泣いてたかと思えばケラケラ笑っていたり、臆病な割に喧嘩っぱやかったり、弱い癖に強かったり。全部全部、知らなきゃ目にも留まらなかったのに。

「…テメェはよ」
「ん?」

猫堂の頬に今度こそ手を伸ばして、両側から捻りあげる。猫堂は「いはい!」と小声で抗議してきたが、こちらがゴチンと額をぶつけたら途端にびたりと動きを止めた。

「チョロチョロすんなや」
「ふぁ?」
「あとチカチカもすんな」
「はにあ?」

何が?とは言えていないが、顔は何言ってんだコイツと雄弁に語っている。それがまたムカついて、一旦額を離して追撃の準備をした。2度目の頭突きを察したらしい猫堂が、避けようと身を捻った。ら、お互いの膝がゴチンとぶつかって、柔らかいベッドに足を取られた。バランスを取ろうにも手は猫堂の頬を掴んだままで、

−−−ばふん。
−−−どさり。

「………」
「………」

咄嗟に言葉が出てこなかった。

シーツについた自分の両腕の間にすっぽり収まっている猫堂が、ぽかんとこちらを見上げている。散らばった赤茶の髪が手首を撫でた。どけや、というワードがまず頭に浮かんで、すぐに自身がそれを棄却する。いや俺だわ。分かっているのにシナプスが機能せず、横についた自分の手のサイズが猫堂の顔の大きさとそう変わらないことに驚愕して、その一瞬の間に「お」という第三者の声がした。

揃って首を捻ると、何故か床に落ちている轟が、ベッドの縁からこちらを見てぽかんとしていた。

「………」
「………」
「……わりぃ」

コイツなりに最大級頭を回した末の一言だったのだろう。最悪だ。いつもポヤっとる癖にこんな時だけ妙な勘働かせてんじゃねえ。

猫堂の上から飛び退いて、そのままミーアキャットみたいに顔を出している轟の頭をがしりと掴む。

「謝ってんじゃねぇ勘違いしとんじゃねぇそして死ね…!」
「うお、いやでも」
「事故だ!わ、す、れ、ろ!」
「事故?」
「いや衝突事故が起きて…てゆか、轟の方が事故ってたね?」
「頭から落ちた…」

さっきのどさりという音の正体はどうやらコイツをだったらしい。猫堂とベッドに倒れた衝撃でスプリングが跳ねて、ベッドのしこたま端で寝ていた轟が転げ落ちたのだ。

起き上がった猫堂が「だいじょぶ?」なんて言いながら四つん這いで這ってきて、床に座り込んだ轟をベッドの上から2人で見下ろすという、妙な構図が出来上がる。釣り人と魚かよ。部屋は真っ暗。時刻は夜中の3時。

「…ぶ、ふ、ふは」

隣から、押し殺したような笑い声がした。見下ろすと、体を折った猫堂がぷるぷる震えていて、直後弾かれたように笑い出した。同時に腕をべしんと叩かれる。

「あはははは!何やってんだ私達!」
「達で括んな!テメェがくっだんねー事で起こすからだろが!」
「いやでも、少女漫画みたいなハプニングが起きたじゃん今!そしたら横でドリフ始まってたじゃん!ツッコミ追いつかんわ!」
「つーかそこどいてくれお前ら、ケツいてぇ」
「お前は一生そこで寝てろやクソポヤ!」
「あっそうだ轟みてみて外これ」
「だァら寝ろや!!」

頭をしばこうとするとスルリと避けられ、追撃しようとして思い留まる。さっきみたいな事故がまた起きかねない。日よっているみたいで、そんな自分の思考にまた腹が立つ。

今度は轟と並んで窓際に寄る赤茶の後ろ頭に枕だけぶつけて、とっとと布団に潜り込んだ。意味を成さないひそひそ声を、できる限り意識からシャットアウトする。

朝が来たら全部忘れているといい。触れた頬の柔らかさも、星が映った目も、チカチカした光景も、頭の中に残り続けてしまったら最後、厄介な名前がついてしまいそうな気がした。

嵐と一緒に全部飛んでいってしまえと願って、再び固く目を閉じた。





あらしのよるに

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ