短編

□灯る
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合理的に行こう。
その担任の口癖はかつての教え子達に伝染り、プロヒーローになった彼らは頻繁に現場でその言葉を口にする。

ユキもそうだ。
いつだって合理的で、最善の道を選ぶのだ。

「…迂闊ですね」

太ももに直に触れるスーツの向こうで、先生の腹がひくりと動いたのが分かった。顔を近づけると、肩から滑り落ちた髪が、先生の頬をするりと撫でる。見開かれた左の黒い瞳に、自分の顔が映っている。

「そんなんじゃ、襲われたって文句言えませんよ」
「…相当酔ってるな、お前」
「どうでしょうね」

口を開くと、お互いからふわりと葡萄が香る。

もともと緩められていたネクタイの輪に指をかけて引く。解けたそれの隙間から、シャツのボタンの上から2つ目を外した。

そこで漸く、先生の手がユキの手首を掴んだ。

「今なら、慣れない酒で失敗したって事で忘れてやる」
「失敗してないよ、まだ」
「頭冷やせ馬鹿野郎」

ユキの手首を握る先生の手に、ぐっと力が入った。先生の顔の横についていた腕も、肩のあたりを内側から掴まれる。

こんなの、先生なら簡単にひっくり返せるのだ。ひっくり返して、逆にユキを組み敷くことも、手刀でもなんでも一発入れて気絶させることもできる。

すぐにそれをしないことに心臓が浮き上がって、ユキの中の理性が沈める。そんな繰り返しを、この部屋に来てから、ずっとしている。

「ねぇ、せんせ」

肩を掴む先生の腕に、自分の腕を巻きつける。指先で、捲ったシャツから覗く素肌をつい、と撫でる。

「失敗するかどうかは、先生がこれから決める事だよ」

言うが早いか、素早く関節技で先生の腕から逃れた。顔を近づけて、薄い唇に触れようとしたところで、ドレスの首根っこを掴まれる。

そのまま乱暴に引かれ、視界が先生から天井に変わっていくのがスローモーションみたいに見えた。

背中がスプリングで跳ねて、ふたたびシーツに沈んだ時には、相澤先生がユキを組み敷いていた。険しい顔で口を引き結んでいる。

「酔ってるんだよ、お前は。自分が思ってる以上に」
「…失敗ですか?」
「……お前のそれは、刷り込みだ」

深く深く、先生がため息をついた。

じくりと心臓が痛む。あぁ、先生はユキの気持ちを理解している。理解した上で、優しくしようとしてくれている。

「先生として慕ってくれてるのは知ってるし、嬉しいよ。でもお前は、俺じゃなくてもちゃんと生きてここまで来たはずだ。クラスの奴らが、爆豪や轟がいて、一緒に、」
「先生が決めないで」

思ったより大きな声が出た。先生が口を噤んだのをいい事に、胸元に落ちている解けかけのネクタイを掴んで引き寄せる。

「私まだそんなに馬鹿に見える?自分の感情くらいちゃんと分かってるよ。尊敬でも恩義でもない、先生じゃなきゃダメだったの、昔も、今もそうなの、先生がいいの」
「………」
「困らせてるのも分かってるよ。でもそんな優しさいらない、合理的じゃない」

声が震えて、じわりと視界が滲んだ。泣くな、情けない。縋りつきたくない。

この人が、教え子に特別な感情を持つことは無い。そんなの分かりきってたから、ユキはそれを刷り込みだと自分に言い聞かせて、蓋をして、あの学舎を出た。

しかし再び火がついた感情には、もう蓋はできない。

だからケリをつけるのだ。99%負け戦、でもほんの1%でも可能性を試してみたくて、この人を押し倒した。

「相澤先生、だめなら落として。さっき言った通り、お酒の失敗ってことにして忘れて。だから…ちゃんと答えて下さい」

肩を押さえつける先生の手を掴んで、自分の首元に持っていく。

1%の可能性も無いのなら、深酒の末の悪巫山戯だったと無かったことにして、明日からは今まで通りの恩師と教え子になれる。その代わりに、分かり切っている答えを、先生の口から貰うのだ。そうすればユキは、自分のこの感情に、すっぱりとケリをつけられるから。

目の端から生ぬるい液体が一筋流れたのが分かった。先生の左眼が、まばたきもせずユキを見ている。

秒針の音だけが響く空間で、長い長い沈黙が続く。

「………くそ」

沈黙を破ったのは、吐き捨てるような相澤先生の悪態だった。

「何がいいんだ、こんなオッサンの…」
「…さぁ、なんでだろう……」
「さぁって、お前な」

先生の親指が、こめかみに流れた涙を乱暴にぬぐっていった。

「お前はまだ若いし、可愛いし、もっといい男がこれからごまんと現れるんだぞ」
「かっ、わ、」

先生が何を言いたいのか分からなくて(というか先生に可愛いと言われたことに衝撃を受けて)、言葉にならない声が漏れる。首元にあった手の、カサついた親指がユキの鎖骨を撫でた。

ぶわ、と血液が泡立つ。

相澤先生は感情の読めない目でユキの顔を見つめて、その視線がすっと下がった。そのまま頭が胸元に落ちてきて、

「う、ひゃ!?」

鎖骨にざらりと濡れた感触。飛び上がった身体は先生の腕に押さえつけられた。次に鎖骨の少し下に、乾いた柔らかい感触。顔の縁に先生の黒髪が触れる。呼吸が止まる。

相澤先生が前髪の隙間から、ユキをじとりと睨んだ。

「大人を弄んだ罰だ、耐えとけ」
「耐えっ、て、うぎゃ」

固まっている間に手首をひとまとめにして頭の上で拘束されて、情けない声を上げる。ユキを拘束するのとは逆の先生の手が、ドレスの肩紐を下ろした。衣服が半分ずり落ちた胸の上の方に、再び柔らかい感触。ユキの皮膚の上で先生が口を開けて、熱い息がじわりと肌を撫でて、あろうことか柔く噛みつかれる。

「ひ、」
「……」
「んっ…」

歯形でもついたのか、噛み付いたところを先生がべろりと舐めて、息とも声ともつかない何かが口から漏れた。拘束された指先がじんじんと痺れる。心臓がいまだかつてないほどに脈打っている。今まで何度か死にかけたことはあるが、そのどれよりも心臓が仕事をしている。

「せ、んせっ」
「……」
「待って…た、タンマ!」

限界だった。泣きそうな声でユキが叫ぶと、漸く先生が頭を上げた。鋭い眼光が、ユキをギロリと睨む。

「分かったか」
「な、にが」
「ベッドで男を煽るとこうなる」
「うぁ、はい…」

濡れた胸元にクーラーの風が触れて、背筋がぞわりとする。心臓を落ち着けているその間で、ふと、今しがたの先生の台詞が引っかかった。

「先生、煽られたの?」

言ってから、しまったと思った。ユキを組み敷いたままの先生の目がみるみる剣を帯びる。

「仕掛けてきたのはお前だろうが」
「は、はい…」
「猫堂、お前は、こうするのが合理的だと思ったか」

先生はユキの問いかけには答えなかった。代わりに、説教というには静かでゆっくりな口調でユキに尋ねてくる。

まるで、先生の方が、自分自身に問いかけているみたいだ。

「…白黒つけられて、後腐れがないから、合理的かと」
「馬鹿か」
「あいたっ」

デコピンが飛んでくる。急に腕を解放されて、先生がユキの上から退いた。そのままベッドの縁に腰掛けて、先生ががっくりと頭を抱える。

「後腐れないわけないだろ…」
「腐れませんよ!ちゃんとすっぱり」
「違う、お前じゃない。つーか俺に押し倒されてんのにされるがままになってんじゃねーよ…」
「そりゃっ、」

先生だから、と言いかけた台詞が喉でつっかえた。

お前じゃないって、何が?後腐れないわけないのが?ユキじゃないなら…じゃあ誰が?

「…あのね」

頭を抱えたままの先生が、俯いてボソボソと口を開く。

「んな顔されて、俺がなんとも思わないと思ったか」
「……」
「フったからハイ終わりって、明日から今まで通りにお前を見られると、本気で思ったか」

先生の言葉を脳内で噛み砕きながら、ユキがゆっくりと起き上がる。先生の背中との距離が少しだけ近づく。それでも人ひとりぶん、手を伸ばしてもギリギリ届かないくらいの距離。

(…私は、そのつもりだったけど)

フラれたらユキはこの感情に今度こそちゃんと蓋をして、先生もお酒のせいってことにして、今まで通りに戻る。それだけのつもりだった。でも、先生は違うと言っている。戻れないと、言ってる?

「…先生、こっち見て」
「……」
「相澤先生。……相澤消太さん」

初めて口にしたかもしれない、先生のフルネーム。待つこと数十秒、ゆっくりと先生がこちらを振り返る。

怒ってるみたいで、拗ねてるみたいで、何かを恐れてるみたいにも見えた。

「理性、ちょっとでも揺らぎましたか」
「さっきの行動みりゃ分かるだろ…クソやらかした、忘れろ」
「やだ。てゆか続きしてもらっても全然いいんですけど」
「ふざけろ」

頭をがしがしと掻きむしる先生が、なんだか急に同じ年頃の男の子みたいだ。近くなったように感じた距離を、物理的にも詰めてみる。お尻を浮かせてぴょんと前に進んで、先生のシャツの肘のあたりを摘んだ。

先生がこっちを見ないまま、でもユキの手も振り解かないまま、低い声で言う。

「…猫堂、やめとけ」
「やめない。先生、すきです」
「あー、クソ、言いやがった…」

一世一代の告白に返ってきたのは、特大のため息だった。

数分前なら、泣き喚きたいのを必死にこらえて酔っ払いのふりをするところだっただろう。なのに今、この反応に、心臓のあたりが柔く痺れる。

困らせているのだ。たぶんユキが思ってたのとは違う方向で、自分よりひとまわり年上のこの男の人は、とても困っている。

「…お前の気持ちと俺の気持ちが」

喉のあたりでごろつく低い声。それが耳に入って、ストンと胸に落ちていく。

「同じかと言われたら、違うよ。俺にとってお前は、大事な教え子だ」
「…でも、フってくれないんですね」
「悪いね、大人は狡いもんなんだよ」
「狡くていいです。ねぇ、先生」

息を吸い込んで、シャツを握る手に力を込める。

「私、まだ先生のことすきでいてもいい?」

シャツの奥の先生の腕がぴくりと動いた。探るような時間の後、相澤先生が腕を上げて、ユキの髪を耳にかけた。長い指が、耳の縁をするりと撫でていく。

「忠告はしたからな」
「うん」
「すぐには答えられないぞ」
「うん」
「…再三聞くが、こんなオッサンのどこが」
「先生しつこい」

顔の横にある先生のゴツゴツした手を握る。どこがいいのはこっちの台詞だ。力を込めたそれが、指を絡めて握り返された。

「はぁ…あんな殺し文句、どこで覚えてきたんだ」
「…殺しました?」
「昔も今も俺がいいってのは、結構キた」

くしゃりと苦笑いを浮かべた先生を見て、涙とか血とか色んなものが首から上にこみ上げてきた。顔が熱い。散々やっといて今さらすぎる、と思っていたら、先生も「お前人のこと押し倒した癖に今さらそんなリアクションするか?」と両手で顔を挟まれた。いつのまにか、すごく近くに先生がいる。

「せ、せんせい」
「ん」
「さっきの続き、する?」
「…今はしない。お前さっき俺が言ったこと忘れたか」
「忘れてない、から、煽ってます…」
「………クソ、覚えとけよ」

ぐしゃりと髪をかき混ぜられて、少しだけ引き寄せられた。額が先生の胸元に触れるか触れないかという距離で、ハイペースな鼓動の音がする。ユキとは僅かにリズムがずれた、先生の音。

こみ上げてくる感情を全部詰め込んで、先生の手を握る。

自分も、この人も、あまりにも多くのものを失くしてきた。だからもう失くさないように生きていくのだ。強くて理屈っぽくて、とんでもなく優しくて、たまに弱気。そんな人が隣にいることを許してくれるというなら、お互いを失くさないように、ユキは死ぬまで、ここにいる。



灯る



end

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