Coco


□エガオ
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期末試験を数日後に控えた、初夏の雄英高校。
その体育館ガンマにて。

「!?」

組手をしていた相手が一瞬で視界から消え、瞬きの直後には自分の鼻先数センチの距離にいた。

色素の薄い睫毛が至近距離にある。な、長い。前髪が鼻先をかすめて、ふわりと甘い匂いがする。冷たい腕が自分の首に回されて、混乱したのも束の間。

「そりゃっ」
「う、グッ!?」

気の抜けた掛け声と共に視界がぐるんと回って、背中に衝撃。

一瞬息が止まって目を瞑る。開いたときには、心配そうなダークシャドウと、にまにま笑っている猫堂がこちらの顔を覗き込んでいた。

「今余計なこと考えてたでしょー、常闇クン」
「……黙秘する」

確信犯か。タチが悪い。

感触やら匂いやらを頭から振り払って立ち上がる。自分もお世辞にも体格が良いとは言えないが、それでも目の前のクラスメイトの方が少し目線が低い。いつもの肘上までを覆う手甲は外されており、ノースリーブのコスチュームからなまっちろい腕が晒されている。

「どうやったら人ひとり投げ飛ばせるんだ、その腕で…」
「合気道だからね、今の。いいよぉ合気、体格差がある相手でも対応できる」

猫堂はそう言って、肩にかかる髪をさらりと払う。さっきのシャンプーらしき甘い匂いが再び香った気がした。

−−−今度、時間が合えばでいいんだが…格闘技を教えてくれないか。
−−−え?私が?
−−−組手のようなものでいいんだ。

あの約束からはや2ヶ月。
職場体験やら何やらでなかなか都合がつかなかったが、期末演習試験の対策≠ニいう上鳴の提案に乗る形で、それは実現していた。

(体育祭の時より、強くなっている…)

並外れた動体視力、反射神経、こちらが指一本動かしたことも気取られる。恐るべきはそこからの先読み≠セ。たぶん、相手の動きを戦いの最中に何パターンも予測しているのだろう、こちらの攻撃がてんで当たらず、気付けばカウンターを食らっている。

あの時の自分は、ダークシャドウ無しでは本当に相手ならなかったのだと思い知った。

(…情けない)

クラスメイトは皆強い。そこに男女差は無い。それにしたって、目の前の女子生徒にここまで敵わないのは、体格に恵まれないせいか、それとも、

「常闇さぁ」

自分を呼ぶ声に、思考の沼から引き上げられた。いつの間にか真正面にいた猫堂が、こてんと首を傾けている。

「体育祭の後言ってたけど、オールマイトに個性に頼りすぎるな≠チて言われたんだっけ?」
「え?あぁ…」

ぎくり。そんな擬音がつきそうな程に、身体が強張る。赤いビー玉のような瞳に、頭の中まで見透かされている気がした。

「…あの後考えたんだ。例えば敵に相澤先生がいたとして、俺は使い物になるのかと」

気づけば心の内を吐露していた。個性を消された、つまりダークシャドウ無しの自分の価値。自問自答した時、あまりにも頼りないそれに…ゾッとしたのだ。

自分自身が強くならなければ意味がない。オールマイトの助言は、指針でもあり、ある種の強迫観念のように頭にこびりついている。

「ひとりの俺は、弱いな」

遥か向こうを走るホークスの背中を思い出す。零した言葉の弱々しさに辟易していると、「そうかなぁ」という声が返ってきた。

顔を上げると、不満げな表情の猫堂がこちらを見上げている。

「そりゃ、先生みたいな個性の敵への対応策は考えなきゃいけないし、近接鍛えるのはいい事だろうけど、ダークシャドウ無し≠ノ拘るのはナンセンスじゃない?」
「ナンセンス…?」
「ダークシャドウと一緒に戦うのが常闇の戦い方じゃん」

さも当然のように言われた言葉に、咄嗟に返せなかった。

一緒に、戦う。

振り返ると、ダークシャドウが静かにこちらを見ていた。生まれてからずっと傍らにいる相棒は、余計なことはわりと喋るくせに、今この時だけは何も言わない。

「持ってるものをもし無かったら≠ニ考えるのも、無いものをもし持ってたら≠ニ考えるのも、どっちも無駄な作業だよ」

隣に並んできた猫堂は、そう言ってダークシャドウの頭をひと撫でした。無駄と言い切る、その言葉尻が鋭い。

「常闇にはダークシャドウがいる≠だから、別に一人で強くならなくていいと思うけどな」

猫堂の台詞が、するすると胸に仕舞われていった。ダークシャドウがすり寄ってきて、その頭を猫堂と同じように撫でる。

「…不安にさせたか、ダークシャドウ」
「ダイジョウブダ、アイボウ」

相棒、とお互いに思っていることを再認識して、不安定だった足元が途端に安定した気がした。

体育祭を経て、オールマイトのアドバイスを受け、職場体験で圧倒的なスピードを目の当たりにし、少し焦っていたようだ。自分はまだ℃繧「かもしれないが、ひとりじゃない。

ダークシャドウから視線を外して猫堂を見る。

「ありがとう、猫堂」
「やだなに?お礼言われるほどのこと言ってないぞ」
「いや…お前に教えられるのは2度目だ」

体育祭で自分の弱さを、そして今回は、心の弱さを。そう言うと「そもそも私は常闇が弱いなんて全く思ってないんですけども」と猫堂は眉を下げた。

そのまま、ふいと視線を外した猫堂がぽそりと呟いた。

「むしろ、ありがとうは私の台詞だし」
「え?なにがだ」
「なーいしょ」

人形のような顔立ちが、悪戯っぽく笑った。









「常闇、大丈夫?」

あの日と同じ甘い香りに、顔を上げる。障子と並んで、心配そうな表情の猫堂がこちらを覗き込んでいた。

『−−−こっちだよ!』

(あぁ…これか)

混濁する意識の中で先月の出来事を思い出したのは、猫堂の声が聞こえたからだ。相棒と一緒に戦うべきだと道を指し示してくれた彼女を、他ならぬ相棒が傷つけてしまう。その危機感が、ギリギリで自分の意識を繋ぎ止めていた。

「あぁ…ありがとう猫堂、助かった」
「私は大したことしてないよ。ここまで連れてきたのは緑谷と障子だし、光は轟と爆豪だし」
「いや…お前の声が聞こえた」
「?」

暗闇の中、一筋の光明のようだった。そう口にしようとして、はたと思いとどまる。なんだか告白じみている、いや全くそんなつもりは無いのだけれど。

不思議そうな猫堂の視線から逃れていたが、緑谷の切羽詰まった台詞に現実へ引き戻された。

「爆豪…?命を狙われているのか?何故…」
「分からない…!とにかく…ブラドキング先生、相澤先生、プロの二名がいる施設が最も安全だと思うんだ」
「成る程、これより我々の任は、爆豪を送り届ける事…か!」
「ただ、広場は依然プッシーキャッツが交戦中、道なりに戻るのは敵の目につくしタイムロスだ…真っ直ぐ直線がいい、」

相変わらずのマシンガントークが続いた後、緑谷の視線が猫堂に向き、ぎゅっと眉間に皺が寄った。

「猫堂さんは鼻も夜目もきくから、障子くんと同じく索敵…特に後方を担当して欲しいんだけど…」
「ん、了解」
「…えっと」
「…!?」

口籠る緑谷の視線を辿って、ギョッとする。

緑谷も大概ではあるが、猫堂の左腕と右肩が爛れたように腫れ上がっていた。ぽたぽたと地面に染みを作る血はまた別の、右手の傷口から流れている。

「猫堂、その怪我は…!」
「あー気にせんでいいよ、痛くないから」
「そんなわけ無いだろう!」
「まじまじ。痛覚切ってるもん」

あっけらかんとそう言い放った猫堂に、その場の空気が凍る。

痛覚を、切る?

「…なんだそれ」

轟の低い声に、場違いなほど明るい表情で猫堂が笑った。

「職場体験のあとから、神経系をコントロールできるようになってさ。便利っしょ?だから骨と筋肉が機能する限りは普通に動かせるよぉ」
「お、まえ、な」

障子が隣で言葉を失っている。

医者でもなんでもない学生の自分達にも、猫堂がヤバい事を言っていることは分かった。要するに、身体が粉々になるとかそういうレベルになるまでは痛くないから&ス気だと言っているのだ。

…いや、ヤバいというより、どこかおかしい=B

「…猫堂、お前は宿舎戻れ」
「なぁに言ってんのさ轟」

殆ど命令な轟の言葉に、カラリと笑った猫堂が緑谷へ視線を移す。

「連合の狙いは爆豪だ。常闇の言う通り、殺される可能性も大いにある。一番避けなきゃいけないのは爆豪を奪られること≠ナしょ。私の腕なんかどうでもいいよ、動ける駒は使ってよ、緑谷」

(駒、って…おい…?)

緑谷が「猫堂さ、」と言い切る前に、今まで黙っていた人影が動いた。

「テメェ」
「う、わ」

爆豪が、猫堂の胸ぐらを掴んで、勢いよく捻り上げた。猫堂の片足が宙に浮く。

「んっだそのきめぇツラは…」
「はぁ?クソ失礼〜、どこがキモいのよこのお顔の」
「その薄ら寒ィ笑い方だわ!面白くもねぇのに笑ってんなや!」
「ちょ、かっちゃん…!」

他が止めようと間に入ろうとしたところで、はたと気付く。

「………」

猫堂は何も言わなかった。
何も言い返さず、ただ少し眉を下げて、柔らかく笑っていた。

「…猫堂…?」

いつもの猫堂なら言い返す場面だ。そうやって怒鳴り合いに発展するこの2人を、数ヶ月の間で何度も見た。しかし猫堂は何も言わず微笑んでいる。

やっぱり何かが妙だ。その場の全員が、このどこかおかしい@l子に気付いていた。しかし、上手く言葉にできない。

「……チッ」

暫くその笑顔を睨んでいた爆豪が、舌打ちして乱暴に猫堂を突き飛ばした。よろけた猫堂を咄嗟に受け止める。

「うぜぇ」

それだけ言って、爆豪はスタスタと歩き出してしまった。

「…猫堂さん」

緑谷が、真一文字に引き結んでいた口を開いた。

「皆で固まって移動した方が安全だから、猫堂さんも一緒に行こう。でも…戦闘になっても猫堂さんは絶対に参加しないで」
「……」
「ごめん…こんな状況だから、君の索敵能力が必要なんだ…無理させちゃってごめん…」
「みーどりや」

血塗れの右手でVサインを作って、猫堂が破顔する。

「まずは、皆で無事に先生のとこ戻ろ。他の事は全部あとで」
「……」

猫堂の言うことも、緑谷の意見も、確かに正論だった。この異常事態、全員でプロとの合流が最優先だろう。

後味の悪さを抱えつつ、先頭を障子、緑谷と轟、中心に爆豪、後方に自分と猫堂と続き、一行は重い空気の森の中を進みはじめた。

(なんだ、この違和感は…?)

隣を歩く横顔を横目で盗み見る。

猫堂は普段からよく笑う奴だしむしろ騒がしい部類に入るが、こんな状況でへらへらと笑えるほど、脳天気でも馬鹿でもない。しかし、周囲を警戒しながら歩く今この瞬間さえも、口もとが僅かに緩んでいる。

(……あ、)

「なーいしょ」なんて言って笑ったあの笑顔と、今隣を歩く笑顔が重なって、そこで初めて思い至った。

目が、笑っていないのだ。へらへらと薄く笑っているのは口もとだけで、目は冷たいビー玉のように、何の感情も浮かんでいない。

やはり痛覚云々は嘘で、本当は歩くことすら辛いのではないか?無理をしているサインなのでは?「おい猫堂、やっぱり」と言いかけたところで、先頭の障子が立ち止まる。

「…何か声がしないか?」
「!」

咄嗟に爆豪を囲んで、周囲を警戒する。あたりに人の気配はない。風が木々の葉を揺らす、ざわざわとしたさざめきだけが響く。

暫くして、ぴくりと猫堂が動いた。

「聞こえた。あっちの方…たぶん女子…お茶子ちゃんの声!」
「行こう!」

揃って駆け出した時、不意に視界が真っ暗になった。月が雲に隠れたわけではない。完全なる暗闇。

(な…!?)

何が起きたか分からず、咄嗟に左隣に伸ばした手は空を切った。

やられた、と気付いたのは、音すらも聞こえなくなった後だった。




act.85_エガオ


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