Coco2

□砂の器
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額にひやりとした温度を感じて、目を開く。白い天井、蛍光灯、天蓋カーテン、消毒液とコーヒーの匂い。この半年ですっかり慣れてしまった、保健室の空気。

「起きたか」
「……と、どろき」

視界を遮って、見慣れたクラスメイトの顔が覗き込んできた。喉から出た声は酷く掠れていて、生唾を飲み込んだところで水を手渡される。ゆっくり起き上がると、ユキの額に添えられていた轟の右手が離れていった。ずっと冷やしてくれていたのか、額だけがキンと冷たい。

窓の外では、どんよりした雨雲が僅かに茜色に染まっている。

「気分どうだ?」
「…いくない…私、なんで保健室いるの…?」
「教室で課題してる最中に潰れたんだ。寝不足と知恵熱だろうって、リカバリーガールが」
「寝不足と、知恵熱…」

徐々に記憶が蘇ってきて、轟の言葉を反芻する。
そして、絶望のあまり枕に倒れ込んだ。

情けない、恥ずかしい。ユキは、マスコミが来ると言われただけで寝不足に陥り、カメラを向けられただけで熱まで出したのだ。しかも全然関係の無い轟と爆豪にまで迷惑をかけてしまった。枕に突っ伏しているユキの後頭部に轟の声が降ってくる。

「起きたら寮帰っていいって言われてんだが…歩けそうか?」
「…ちょっと今無理かも…」
「じゃあおぶる」
「いやそういう事じゃなくて…あーごめん、歩ける、歩けるけど」
「…じゃあ待ってる」

そろりと顔を上げると、ベッド脇のスツールに腰かけた轟が、少し困ったように笑っていた。教室から持ってきてくれたのだろう、ユキのスクールバッグが轟のショルダーバッグと一緒に、足元に綺麗に並べられている。

「…いいよ、先に帰ってて」
「待ってるよ」

再び下りてきた冷たい右手が、ユキの乱れた前髪を掬って額に触れた。

あぁ、自分はこの人に、心配ばかりかけている。

「ごめん…ごめんね轟」
「謝られるような事されてねぇよ」
「違う。ちゃんと頼りたいのに、上手くできない…」
「…ふ」

何故か小さく笑われた。触れていた手のひらが裏返って、むっとしたユキの額を指の関節でコツンと叩く。

「なによぅ…」
「いや、頼りたいってちゃんと思ってくれてた事に安心した」

そのまま、轟の手の甲がするりと頬まで滑って、離れていく。子供扱いされているみたいで、昨日の轟はこんな気分だったのかと少し反省した。心臓のあたりがむずむずして、泣きたいような叫びたいような、変な感じがする。

「分かんないって、うわ言みたいに言ってたの覚えてるか?」
「…ん」
「何に迷ってんのかは聞かねぇが…とりあえず言葉にしてみたらどうかと思う」

轟が、ふっと天井を見上げた。

「お母さんの病室に、初めて顔出したとき…何から話せばいいのか分からなかったんだ。でも、お前に背中押してもらって…その時思った事とか、思い出した事とか…今思えば支離滅裂だったかもしれねぇけど、話したんだ、ひとつずつ。そしたら伝えたい事も見えてきて…」

ユキから見えるダークグレーの右眼に、茜色が映っている。綺麗だな、と場違いな感想が浮かんだ。

「なんつーか…言葉にして初めて分かるもんもあると、思う」
「……」
「あと、経験則だが、一人で溜め込んでてもあんまいい方に転ばねぇ」
「…それは、確かに」
「だろ」

整った横顔が、こちらを見下ろしてふっと笑って、それきりユキの言葉を待つように黙ってしまった。どきりと心臓が脈打って、そこから血が指先にまで巡っていく。2人きりの保健室に響く秒針の音が、少しだけ遅くなった気がした。

『ちゃんと話せるようになるまで、待ってて…そばにいて』
『分かった』

轟は、あの約束を守ってくれている。だから何も聞かずに、一人で参って勝手に泣きそうになっているユキのそばで、黙って手を差し伸べてくれているのだ。いつも感情の読み取りづらい目が、ユキだけには雄弁に語りかけているような気がした。

−−−何かできることはあるか、だ。

「…受け入れなきゃ、いけないって、分かってる……」

自分の掠れた声が、恐る恐る踏み出すみたいに口から溢れる。

「認めてもらうために、撮られて困る事なんか何もないって証明するために、カメラもマスコミも…逃げてちゃいけない」
「……」
「分かってるのに…体が、言うこときかない…」

震えそうな手で、シーツをぎゅっと握りしめる。怖い。カメラを前に萎縮する理由は、あえて触れないようにしている感情のせいだと、本当は気づいていた。それに、言葉という形を与えてしまうのが、ずっと怖かった。

「恨むのも憎むのも、お門違いもいいとこなの。実際、私は誰も恨んでなんかない、そもそもそんな資格私に無い」
「うん」
「だって、悪いのは私だから…お母さんの近くに、一番近くにずっといたのに…何もしなかった、私が一番、悪い奴で…」
「…うん」

ただ静かに相槌を打つ、轟の声だけが頼りだった。

握りしめた手は細くて小さくて、とても頼りない。これは砂の器だ。いつ壊れてもおかしくないまやかしの容れ物だ。そんな脆い器を、必死に固めて取り繕って、その感情を仕舞い込んできた。

「なのに、カメラを…特田さんを見てたら、どうしても頭の端っこに浮かんじゃう…」

言葉にしたら最後−−−自分で自分をぶっ殺したくなるから。

「……私達を、そっとしておいてくれたら…お母さんは死なずにすんだんじゃないのかなって…」

絞り出したそれがどろりと器を溶かして、体の中に染みを作った。

(あぁ…知りたくなかった…)

罰を享受すべき自分が、母親の死の責任を、顔も知らない誰かになすりつけるための言葉だ。そんな事許されない。思ってはいけない。責めるべきは自分で、マスコミでもヒーローでもない。だから自覚してしまわないように、頭の中ですら言葉にすることを避けてきた。

案の定、ありもしない罵声が聞こえ始める。もう平気だと思っていたのに、幻聴だと分かっていても頭が割れそうだ。お前が何もしなかったから母親は死んだんだ、何故父親の企みに気づかなかったんだ、お前のせいでたくさん人が死んだんだ、なんでお前が生きているんだ−−−。

「猫堂!」
「!!」

肩を掴まれて、無理やり引き起こされた。いつの間にかユキは体をくの字に折り曲げていて、硬直していた筋肉がむりやり剥がされた。目の前に、険しい轟の顔がある。

「落ち着け、こっち見ろ」
「……っ」
「大丈夫だ」

穏やかだが力強いその声に、無意識に浅くなっていた呼吸が、じわじわと元に戻っていく。そうしたら、肺に流れ込んだ酸素がそのまま液体になったみたいに、目に込み上げてきてしまった。

「……どうしよ、轟ぃ…」
「……」
「こんな事、思ってちゃいけないのに…消えなくなっちゃった…」

じわりと視界が滲んで、轟の顔が見えなくなる。泣きたくないのに、泣く資格なんか無いのに。自分の弱さに打ちのめされて、子供みたいにぐずって、ユキはあと何回こんな堂々巡りをすればいいんだろう。

それきり轟も何も言わなくて、秒針の音だけが保健室に響く。

何分くらい経ったのか、暫くして、頬にするりと温かい何かが滑った。

「…お前、偉いな」
「ん、ぅわ」

轟が、不器用な手つきでユキの頬を拭った。そのまま顔にかかっていた髪が耳に引っ掛けられる。視界が晴れて、ぎゅっと眉を寄せる轟の顔がすぐそばに現れる。

「俺よりずっとちゃんと、過去と向き合ってる。忘れたままでいる方が楽なのに向き合い続けてるから、そうやって自分を責めるんだろ」
「…そんなんじゃない」
「じゃなきゃこんな風に泣けねぇよ」

轟の手が頬を離れて、シーツに投げ出されたユキの手を掴んだ。

「なぁ猫堂。持ってちゃいけない感情なんか、無いと思う」
「え…」
「何を思おうが考えようが、お前の自由だ。大事なのはその感情を、どう行動に移すかだろ」

静かな声が、2人きりの保健室に溶けていく。どう行動に移すか。その言葉は、どうしたいとユキを怒鳴りつけた爆豪の言葉と重なった。

「俺だって、親父への感情は消化できてないままだ。仮免の時に思い知らされた。でも、俺とエンデヴァーは違うって猫堂が何度も言ってくれるから、俺は俺自身の進み方を考えられる」
「だって、そんなん、当たり前じゃん…」
「当たり前じゃねえ。過去も血も、全部含めて自分だ。過去より未来って、お前この間言ってたけど…それは、過去も抱えたままそれでも進めってことだろ」
「……」

過去より未来。何気ないユキの一言すら、轟は噛み締めて考えて、糧にしている。

「猫堂、一緒に考えよう。お前が必要だと思う分だけでいいから、俺もお前の力になりたい」

轟の手に力が篭ったのが分かった。意外とゴツゴツした、ユキより少し大きな手。顔を上げると、いつだって真っ直ぐユキを見る轟の目と視線がぶつかった。

この優しさに力をもらうのは、もう何度目だろう。

「…もう十分だよ…」
「お」
「ごめん、ごめん轟…ありがと…」

再び溢れた涙に轟がぎょっとして、ふらふらと手を彷徨わせたあと、轟はショルダーバッグから引っ張り出したタオルを渡してくれた。「わりぃ使ったやつだけど」と申し訳なさそうな顔をするので、少し笑ってしまう。

このどろどろした感情は、きっとこの先消えることはない。でもそれは、持ってちゃいけないわけじゃなくて、この先のユキの進み方を考えるためのものだ。自分だって家族に対する複雑な感情を抱えているのに、同じように悩んで、一緒に歩もうとしてくれている轟は、やっぱりとても、頼もしい。

この人の力を借りて、今私は、何がしたい?

「…轟、いっこお願い、ある」
「なんだ?」
「景気づけ」

ユキがそう言うと、一瞬ポカンとした轟が、笑いたいのか困ってるのか分からない顔をした。もそもそとベッドから抜け出すユキに、戸惑いながら轟もスツールから立ち上がる。

「今か?」
「今。おもいっきり。全力で」
「全力って…お前吹っ飛ぶぞ」
「吹っ飛ばして欲しい」

轟に背を向ける形で立って、肩ごしに振り返って、笑ってみせる。ユキの方こそ、笑いたいのか泣きたいのか、よく分からない顔をしているだろう。

「−−−吹っ飛ばされた勢いで、走ってみる」

うだうだ悩んで、分からないと泣いて、色んな人から力をもらって、前を向いて、立ち上がるまではやってきた。じゃあ立ち上がって、その次は?方向も走り方も何も分からないままだけど、次は、ここから進むのだ。



act.131_砂の器


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