Coco2

□七つ下がり
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目が覚めると、階下から焦げ臭い匂いが漂ってくる。それが清野家のいつもの朝だった。

寝ぼけ眼を擦りながらリビングダイニングに下りて、トースターの摘みを無理やりゼロに戻す。表面がちょっと焦げたトーストを皿に並べて、コップに牛乳をとぷとぷ注いでいるところで、洗濯籠を抱えた母がやってくる。これもいつもの風景。

「おはよー、パンが焦げてた?」
「パンが焦げてた。おかーさんいつも適当すぎ」
「ごめーん」

あまり悪いと思ってなさそうな謝罪のあと、母はいつものようにカラッと笑った。自分と同じ赤茶けた髪と、同じ色の瞳。友達には「ユキちゃんのお母さん綺麗で羨ましい」と言われるのだが、それは顔の造形云々よりも、きっとよく笑うからだとユキは思っていた。逆に父は物静かで滅多に笑わないので、夫婦というのはそのへん上手くバランスが取れるようになっているのかもしれない。

「お父さんは?もう仕事行ったの?」

テレビをつけながら、洗濯物を干す母の背中に問いかける。今日の天気は曇り時々雨。午後の体育が無くなったら嫌だなぁと思いつつトーストをかじったところで、母からの返事が無いことに気付いた。

不思議に思って顔を上げる。母は両手をダランと垂らして、カーテンの脇に立ち尽くしていた。握りしめた父のワイシャツが、床を擦っている。首が、殆ど直角を作るように俯いている。

「何言ってんのよユキ」

調子は明るいのに、声がわなわなと震えている。顔が見えない。母がどんな表情をしているのか分からない。明日からは絶好の洗濯日和になりますと話していたキャスターが、突然ニュース速報を読み上げ始めた。都内で立て篭もり事件発生、ヒーロー多数臨場、8名が死亡、画面に轟々と燃える建物が映る。

「みんな死んだでしょ」

振り返った母の顔は、赤紫色に変色していた。大きな瞳と、膨れ上がった舌が、顔から溢れそうなほど飛び出している。

悲鳴をあげた自分の手には、何故かロープが握られていた。慌ててそれを放り出す。放り出した手の先の景色がフローリングから暗転し、グワンと頭が揺れて、数度瞬きすると何の変哲も無い自分の腕と部屋の天井があった。

ピピピピ、と枕元で響く電子音。
早鐘を打つ心臓。
カーテンから差し込む朝の光。

「………最悪だ」

手を下ろして起き上がると、夏も終わったというのにシーツが汗でぐっしょり濡れていた。時刻は7時半、何度も鳴ったらしいアラームの履歴でスマホの画面が埋まっている。

−−−明日A組に、新聞社の取材が入る。

相澤先生にそう告げられてからぐるぐると考え込んでいたからだろう。とびきり寝覚めの悪い夢を見てしまった。眠りが浅かったのか体も重い。ため息をついて、脂汗の浮かぶ額を拭う。

(しっかりしろ、馬鹿…)

先生はこれを好機だと言ってくれた。その通りだと思う。ここでコソコソ隠れていては今のユキが雄英にいる意味がない。ヒーローになるために、認めてもらうために、取材もマスコミも堂々と受け入れなければならないのだ。理解はしているのに、体がそれを拒否しているみたいだった。

のろのろと起き上がって、制服に手を伸ばす。後から思えばこの悪夢は、ある種の予感のようなものだったのかもしれない。




−−−その数十分後、ハイツアライアンスに現れた記者を見て、ユキは心臓が止まりそうになった。

「特別何かをしていただく必要はありません。皆さんがいつも送っている生活を、カメラに収めさせて下さい。たまに質問するかもしれませんが…その時は、よろしく」

特田と名乗ったその男は、白い歯をきらりと光らせて笑った。新聞社の記者だというからどんなオジサンが来るのかと思えば、予想外に若い。緩くウェーブした髪を片側に流し、洒落た丸眼鏡にカジュアルなジャケットスタイル、柔らかい物腰とついでにいい声。イケメンだと騒ぐ女子2人、女子アナじゃないことに不貞腐れる峰田、十人十色の反応を示すクラスメイト達に隠れて、ユキはひっそりと相澤先生を見た。

ばちりと視線がぶつかって、先生は声を出さずに口だけを動かす。
だいじょうぶ、だ。

(…うん、大丈夫、だいじょーぶ!)

先生に向かって頷き、自分にも言い聞かせる。そしていつも通りに、皆と一緒に朝食に向かう。

記事は雄英のチェックを通すと、昨日先生から聞いている。特田という記者の意図はどうあれ、ユキの過去が最悪の形で知られる事は無いはずだ。それにいくら叩こうと、今ここにいるのは雄英高校1年A組の猫堂ユキでしかない。清野英作の娘≠ニしてマスコミが欲しい埃なんか、出てくるわけがないのだ。そんな意識とは裏腹に、心臓はドクドクと脈打つ。

「猫堂?」
「へっ」

不意に視界に現れたピンク色に、びくりと体が震えた。顔を上げると、三奈ちゃんが不思議そうにユキの顔前で手をひらひらさせている。

「どした?ぼーっとして」
「…なんか猫堂、顔色悪くない?」
「そういえば珍しくお寝坊さんだったよね。しんどい?」
「体調がすぐれないのであれば今日はお休みされては…」
「ううん!全然だいじょぶ!」

皆の心配そうな視線に、慌てて朝食のトーストに齧り付いた。ら、勢いよく齧り付きすぎて口に入りきらない量を飲み込んでしまい、咽せるユキに「何してんの?」と総ツッコミが入った。透ちゃんが手渡してくれたカフェオレで、ぱさついた塊を嚥下する。

(ぅああもう…しっかりしろ!馬鹿!)

辺りを見渡すと、特田氏は早速色んなテーブルを回ってはシャッターを切っていた。ユキの方を見ることも、特に無い。

やがて、彼はユキ達のテーブルにもやってきて「一枚いいかい?」とにこやかに笑いかけた。

「はーい!」
「ユキちゃんこっち!一緒映ろ〜」
「…ん!」

三奈ちゃんと透ちゃんに引き寄せられ、3人でぎゅむっと固まる。奥のヤオモモと耳郎はちょっと恥ずかしそうだ。特田氏は「ありがとう」と白い歯を輝かせて、シャッターを切るとすぐに去っていった。その背中を見送って、2人がはしゃいだ声を上げる。

「ほんと、爽やかイケメンだねぇ!」
「しかも知的〜!」
「ノリノリだね2人とも…」

耳郎が苦笑する。普段脳筋寄りの大人達ばかり目にしているヒーロー科の生徒からすれば、そのスマートさも魅力的に見えるのだろう。

「いかにもジャーナリストって感じだよね」
「ペンは剣よりも強し。私達とは違う方法で戦う方々ですわ」
「かっこいいよねぇ」
「………」

ユキだけが何も言えずに、カフェオレをすする。

ヤオモモの言葉が、頭の中で反響していた。ペンは剣よりも強し、全くもってその通りだ。時にそのペンは、剣よりも鋭く人の心臓を貫く。それを、あの人は知っているのだろうか。−−−あの日、1人で肩を縮めて歩く小学生を写真に撮ったことなんて、もう覚えていないのだろうか。複雑な感情に蓋をして、ユキは再びトーストを齧った。



◇ ◇ ◇



取材が入るとは言われたものの、その日一日、生徒達は至っていつも通りの学校生活を送っていた。

胡散臭い笑顔を浮かべた特田は先生の紹介通り、授業を受けるA組を一日中遠くから撮っている。曰く、寮制度を導入した雄英生が元気に生活している様子を取材し、保護者や世間に安心してもらうというお題目らしい。クソくだらん、と言ったら切島が「おめーが一番映っとけよ!」と記者の前に引っ張っていこうとしたので、一発殴っておいた。

「…胡散臭ぇな」

再び浮かんだ印象は口をついで出てきてしまい、それを拾った目の前の轟が顔を上げる。

「何がだ?爆豪」
「んでもねーよ、手ェ動かせ」

放課後の教室、3人分の机を合わせてレポートに勤しむ。今回の補講の課題が大変、まっことウザい事に学校ごとのグループ課題なのだ。とっとと終わらせて帰るぞと提言したのは自分なのだが、そうしているうちに空模様が怪しくなってきた。今日晴れるんじゃなかったんかよ、と使えない気象予報士に心中で悪態をつく。

「特田さんでしょー?」

すると、隣でシャーペンを動かしていたクソ猫が顔も上げずにそう言った。

「マスコミ関係者ってさ、印象良く見せようとしてるのが滲み出ちゃって、逆に胡散臭く感じるよね」
「…主語がでけぇな。どこ統計だそれ」
「猫堂統計局調べ」
「俺は別になんとも、つーかあんま気にしてなかったが」
「テメェはいつもそうだろクソポヤ」
「ぶはは、クソポヤて」

資料集とレポート用紙から目を離さないまま、猫堂が肩を揺らした。そして何でもない調子で言葉を続ける。

「大丈夫だよ、記事は雄英のチェック通すらしいから。妙なことは書かれないはず」
「あ?どこ情報だそれ」
「イレイザーヘッド情報」
「あぁ、なら信頼できるな」
「なにさ轟、猫堂統計局は信用できないって?」
「信用の適否以前に根拠がねぇだろそれ」

下らない会話は一旦そこで途切れ、ペンを動かす音だけが教室に響く。

猫堂統計局、轟の言う通り根拠なんか欠片も無いのだろうが、経験には基づいているのかもしれない。先ほどからずっと机に向かったままの赤銅色の頭を横目で盗み見て、心の中で舌打ちする。

アホ面や黒目みたいなやたらと撮られたがるメンツと一緒になって、猫堂も今日一日カメラの前で騒いでいた。「既に可愛いんですけどさらに可愛く撮ってください」とかアホ丸出しな事を言っているのも聞いた。しかし記者の目が届かなくなった放課後、コイツは途端に静かになった。

−−−こんなの、メディアが、世間様が、解決して良かったですねで済ませるわけがない。
−−−犯人探し≠ェ始まったのさ。可笑しな話だよな?犯人は死んだ。でもな、世間は誰かを責めて祭り上げなきゃ気が済まない。
−−−正しいかどうかなんざどうでもいいんだ。犯人を犯人たらしめた犯人≠ェ欲しくて、国中の攻撃が、妻と娘、哀れな2人の家族に集中した。

死柄木の楽しそうな声が脳裏に蘇る。調べる気なんかさらさら無いので詳しい事は知らないままだが、猫堂が受けた攻撃≠ニやらの内容は容易に想像できた。

過去に出会ったマスコミ関係者もメディアも碌なものじゃなくて、好き好んで関わりたいものでもないだろう。それでも笑って撮られるのは、コイツが過去と戦うつもりだからだ。自分より小さい肩が、縮こまって机に向かっているのを見て、なんとも言い難い気分になる。

励ますなんて柄じゃないし、頼まれたってやりたくない。
でも何か言わなきゃいけない気がする。
何を?

「…おいアホ」
「………」
「おい」
「名前で呼ばなきゃ返事しなーい」
「しとんだろがアホ」

ツインテールの左側を掴んで引く。ずっと机に齧り付いていた猫堂が、渋々といった様子で顔を上げた。

「…はぁ?」

そして愕然とする。こちらの声に反応した轟も再び顔を上げて、猫堂に視線を向けて同じように眉を寄せる。

顔が、やたらと赤い。睨んでくる目も充血して潤んでいる。机の上に乗っていた細っこい手を掴むと、それはおよそ平熱とは言い難い熱さだった。

「テメなにやっとんだ」
「なにってなに」
「猫堂、体調悪いなら言えよ」
「悪くない、なんともないよ」
「嘘つけや!ここで風邪菌撒き散らしたら殺すぞ!」
「風邪なんかひいてないって!」

猫堂がこちらの手を振り払って、再び参考書に向かおうとした。その頭を轟の右手が止めて、そのまま額に添えられる。

「確かに熱いな。帰って休め、課題は俺と爆豪で進めるから」
「…大丈夫なんだってば」
「説得力の欠片もねェわ、散れ」
「大丈夫だって…」

声の調子がどんどん弱くなっていく。呼応するように頭が落ちていって、ついに猫堂は轟の右手を枕にして机に突っ伏した。

「もうやだ…私クソだ…」
「いや熱くらい誰でも出すだろ」
「うう…」

轟が怪訝な顔で立ち上がり、猫堂の頭に顔を寄せる。顔は見えないが、へろへろの声でどんな表情をしているのか分かった。

「こんなんじゃ、だめなのに…」
「おい、本当に大丈夫か」
「…カメラは、やだ…嫌い…でも私がもっとやだ…」
「猫堂…?」
「どうすればいいのか分かんない…もうやだぁ…」

子どものように嫌だを繰り返す。最後の方はもごもごと何を言っているのか分からず、たっぷり1分程経って猫堂はうんともすんとも言わなくなった。

馬鹿みたいに右手を枕として提供してやったままの轟が、何度か猫堂の背中を叩き、そしてぽかんとこちらを見る。

「寝た」
「ガキかよコイツ…」
「なぁ爆豪、猫堂が言ってた意味分かるか?」
「…知らね」

半分本当で、半分嘘だった。というか想像の範疇だ。何が「分かんない」なのかまでは知る由も無いが、カメラもマスコミも死ぬほど嫌いな癖に、コイツは無理をしていたのだ。無理してはしゃいで平気なふりをした挙句、熱まで出した。

アホのくせにアホな真似はやめろアホ、と言いたくても言えないことに腹が立つ。不器用極まりない、これはこの女の戦いだ。助けてやる義理も無い、助けてほしいなんてコイツも思ってない、俺が同じ立場なら助けなんか求めない。

−−−そう理解できるくらいには、俺達はお互いを知ってしまった。

窓の外、どんよりとした雲から雨が降り始めた。




act.130_七つ下がり


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