短編

□桜梅の咲く頃に。
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「見掛けぬ顔。止まりなさい」


始めに声を掛けたのは
私の方だった。



桜梅の咲く頃に。
     平 惟盛




それは見掛けぬ顔だった。
女は何食わぬ顔をして、平然と屋敷の渡り廊下を歩いていた。
私で無ければ、誰も気付かなかったであろう。

曲者。
直感的に、そう感じ取った。



「どちらの間者ですか?源氏ですか、それとも熊野ですか」


抑揚の無い声でパチンと扇を閉じ、
そのまま先を女へと向ける。

落ち着きがある様子を見れば、
慣れているのだと悟った。

女は笑顔のまま、答えた。



「何の事でございましょう。私はこのお屋敷に勤める女官でございます。惟盛さまにお声を頂けるような身分ではございません。」


深々と一礼をする。
私は表情を変えずに、
女の首元へと扇子を突き立てた。



「真実を答えよ」

「……」


にっこりと笑ったまま、女は一言も返しては来ない。
これを確定と見て、
私は女の両腕を背中でもって拘束した。


「私には分かるのですよ。どの道このまま清盛殿の元へ連れて行くのですから、さっさと吐いた方が身の為というもの」


そこまで言うと、
観念したのでしょうか。

頑なに保っていた笑顔を消し、
女は意外にもするすると、白状したのだ。


「…分かりました、本当の事をお伝え致します。私は訳あって、源氏に仕えている者。しかしそれ以上はお答えする訳には参りません」


笑顔から戻った女の顔は
気付かなかったけれど。
凛としていて、
とても強い瞳をしていた。


「…全ては語らない、という事ですか」

「はい」

「…いいでしょう。これから清盛殿の下へ連れて行きます」



腕を拘束したまま前を歩かせる。

この女、いつからこの屋敷に忍び込んで居たのだろう。
足取りも慣れた様子で、先を歩く。

私はそんな彼女に、
敵ながら妙に関心してしまった。


こんな間者は初めてだ。
しかも女。
そして何より、屋敷の者としてすっかり溶け込んでいた。
だからこそ、
すれ違うまで気付かなかった。

おかしいと思ったのは
ふとすれ違う間際に、女が今にも泣き出しそうな顔をしていたから。

だから私は振り向いた。
そして気付いた。
左足を引きずって歩いている事に。
怪我や障害のある者は、決して使いの者として雇うことは無い。
それなのに女は僅かながらだが、
確実に足を引きずって歩いていた。

間者か…?

一度疑えば、
問い詰めるしか他は無い。

そして案の定、
女は源氏の間者だった。
おそらく六波羅の情報でも探ってこいという命令でも下されたのだろう。

都中に知れ渡る我が一門。
それ故、間者という間者に
今までも幾度と無く出会ってきたりもした。


「ここで待っていなさい」


もしかしたら逃げるかもしれないと思ったが
女はきちんとそのままの状態で待っていた。

…ふと、
恐くは無いのだろうかと疑問を抱く。

あの清盛殿とこれから対面するというのに、
女は震えもしなければ
笑いもしなかった。
ただただ平然と、
その時を待っているかの様に思えた。


「…女、名を何と言う」


ふいに聞いてしまっていた。
すると女は、
ようやく口元を緩めて
ゆるやかに微笑んだ。


「とんこ。私はとんこと申します。初めまして、惟盛さま」


同時に、
清盛殿がお見えになられた。
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