僕たちはどうかしてる

□僕たちはどうかしてる Side-J
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世界がひっくり返るのは一瞬だ。

「僕、年下ですよ」

まだほとんど話したこともない、日本から来たヒョン。

大きな目は少しだけ吊り上がって見えて、
あまり笑わず、話さず、気難しい印象だった。

大きな目がびっくりしたように開く。

「97です。ヒョンより2つ下です」

黒目が揺れたと思うと、急に目じりが下がって垂れ目になり、
口元を両手で隠したと思うと、
「あっはっはっはっはっはっ」と笑い出した。

本当におかしいみたいで、手を叩いたりして延々とのけぞって笑ってる。

それを僕はずっと見てた。

心配したテヨニヒョンが「ジェヒョン怒ったんじゃないか」と間に入ってくれたくらい、
ずっと立ち尽くして見てた。

笑ってた彼も、真顔になって「笑ってごめん、本当に」と言い出した。
謝罪の意を伝えるように、僕の腕を触る。

僕は慌てて「気にしないでください、怒ってません」と伝えた。
全く怒ってなかった。
感動してたのだ。

無表情な顔から急に現れた笑顔は、
暗い夜空に、出し抜けに大きな打ち上げ花火があがったようだった。

僕は数日間、その笑顔を何度も思い出していた。
世界が僕とこの笑顔だけになればいいと思った。


ユタよんの笑顔はすごい。
そうわかったので、
練習室とかでユタよんが笑ってる声が聞こえると、
すぐ傍に寄って行って、笑顔を近くで見た。

急に現れるので、「なんだよ、ジェヒョナはあっち行ってろよ」と邪魔者扱いしたヒョンもいたけど、
「いいよ、ジェヒョナは楽しそうな話が好きなんだよな」
そう言って、ユタよんは必ず仲間に入れてくれた。

ユタよん大好き。
ユタよんが傍にいれば僕の幸せが増すので、
いつもユタよんにくっついた。

傍にいるのは許してくれるけど、
しつこく構ったり話しかけ続けると、迷惑そうにする時がある。
だから、傍にいるけどユタよんの邪魔はしない、
って距離を覚える。

猫の集会を思い出す。
彼らは集まるくせに、お互いに干渉しない。
猫の集会にこっそり紛れ込んでる犬の気分で、僕は猫のふりをして、スンとしてる。

するとユタよんは一人で気楽にしている。
本当はたくさん一緒に遊びたいけど。

そして、ユタよんが退屈だなと思ってそうな気配を感じると、誰よりも早く話しかけた。

一人がわりと好きなユタよんだけど、
一人だと心細そうにしてる時もある。

押しの強い苦手なタイプの人がいる状況や、
少し疲れてる時、
無闇に騒がしい所、全く馴染みのない場所、
そんなシチュエーションでは、ユタよんは明らかに心細そうにする。

でも言動には出さない。
目や眉の表情だけが、それを伝える。

「ユタよん、僕に隠れてていいですよ」
そんな時はそう囁くと、こちらを見て嬉しそうにする。
「僕はヒョンの番犬ですからね」

「名犬ジェヒョナやな」
笑って、僕の袖を小さく掴んだりする。
「わん」と答えると笑う。

そして「良い子」と言って髪を撫でてくれるので、
僕はとても満足する。
本当に犬になっても構わない。

袖を掴んでるのを僕が見てしまうと、
ユタよんは恥ずかしがって僕から離れるので、
袖を掴まれてるなんて微塵も気付いてもいないって顔をする。

長い袖を持て余すように垂らして、
僕の腕にくっついてるユタよんは子供みたいに見える。

兄らしい優しいユタよんも大好きだけど、
子供みたいに見えるユタよんも大好き。

結局、どうであれ、ただ彼が好き。
出来る限り長くユタよんと一緒にいたいと思った。



だからこそ、ユタよんだけはダメだ、と決めてた。

もうしばらく血を飲んでない、苦しくて喉が渇く、
体中が泥になるように力が入らない、
って時も。
ユタよんに何かして、恐れられ嫌われ拒まれたら、
きっと生きる気力を失うだろう。


その日のユタよんは、特別甘い匂いがした。

鼻は元々良い方だが、以前はそれほどは感じなかった匂いだ。
香水を変えたかと訊いたら、変えてないと言った。
それどころか今日は何も香る物はつけてないとか言う。

練習で汗をかいた体の襟元から漂う匂い。
熟した果実と肌の匂いを混ぜたような香り。
噛みつかれて、甘い果汁を吹き出す時を待ってるような。

自分の歯がカチカチ鳴る。
慌ててユタよんから離れた。

他の人からも普段とは違う匂いがする。
食欲をさそうような何か。
やっと、僕がおかしいんだとわかった。

まだ練習を終える予定の時間ではないけど、ユタよんから離れないといけない。
自分はもう誰かを襲うって気がした。
悠長には出来ない。

早退を勧められ、練習着のまま社屋を出る。
手持ちの帽子やマスクで入念に姿をごまかし、
街をさ迷い歩いた。
家に帰れば、深夜に戻る両親を襲うかもしれない。

両親に打ち明け血を貰うのが、道義的に一番正しい解決策だろうとわかってたが、
父親は一度心筋梗塞を起こして抗血栓薬を飲み続けていて、
母親は熱心な神への信仰を持っている。
血を分けてもらうのも、打ち明けるのも怖かった。

そして、好きな人や両親を襲うのが怖いからと、
何の落ち度も無い無関係な人を襲うことを考え始めてる自分が、
誰よりもっと怖かった。

殺すわけじゃない。
若い人なら大丈夫。

でももし持病があったりしたら、無事ではないかもしれない。
そもそも知らない人にそんな目に遭わされたら、
立ち直れないほどのトラウマに悩まされるだろう。

人気のない路地裏で、一人で歩く女性を見つけた。
足元のゴミを気にして、こちらには気づいていない。

若くて健康そうに見える。
見た目ではそうだが、実際はわからない。
あの人を襲えるか?
答えはイエスとノーだった。

イエスだ、簡単だ、今すぐ飛び掛かれば良い。

ノーだ、僕が死ねば全部解決だ、それが正しい。
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