飢えた獣をつなぐのは

□探し物が見つかった日
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 突発的な更木との追いかけっこのさらに数日後、沙夜は一角にも頭を下げていた。

 更木の言う通り謝ることはないのかもしれないが、それでも形は必要だと思ったのだ。それがどれだけ無意味であったとしても。

「別に、よくあることだろ。気にすんな」

 案の定、一角は特に気にした様子もないようだった。

「…あぁ、でも」

 ビクリ、と沙夜の肩が震える。あくまで軽い口調だが何を言われるのか今一つ予想できないために緊張が走る。

「テメェが普段本気を出してねぇことがよくわかったからよ」

 ニヤリと一角が口角を上げる。不穏な気配を察知して勢いよく顔を上げると近くにいた弓親も、他の隊士たちも一様に人の悪い笑みを浮かべていた。ゾッと悪寒が走る。沙夜の予感とは裏腹に聞き取れる音はひどく楽し気なもので。

「今度から加減はなしでいいよなぁ?」

 随分と楽し気に宣言された物騒な言葉に沙夜は気が遠くなる気がした。



 瀞霊廷内某所。とある三人以外を除いて誰も足を踏み入れることはおろか存在すら知られていない場所で作業を行っていた蛇の死神が顔を上げた。部屋の中にはいつの間にか眼鏡をかけた温和そうな見た目の死神が立っていた。

「あ、藍染隊長。ずいぶん楽しそうな顔してますけど、なんかあったんですか?」

「あぁ、面白いことが分かったよギン。度会沙夜という死神と度会一族は予想よりも興味深い対象だったようだ」

「そらよかったですな。で、何がそんなに面白いんです?」

「…彼女の今の状態とそれを施した度会の技術さ」

 温厚そうな見た目とは裏腹に圧倒的な威圧感を放っている死神は意味深に深い笑みを浮かべている。蛇の男はそこまで気になっていたわけでもなかったが、話を聞いていくうちに笑みを深くした。

 闇というものはいつだって醜く、けれどいっそ美しさすら感じるほど突き抜けることがある。貴族たちが抱えている闇の一部はまさにそれであり、嘲笑が暗い部屋の中に響いていた。



 貴族街にある天原家で、天原の当主が深く椅子に腰かけて部下に近況をたずねていた。

「…それで、暗殺依頼はどうなっている」

「一度、虚退治にかこつけて斬りあいに発展したようですが返り討ちにあったと」

「そうか、やはり無理か。度会の娘はどうなった?」

「いえ、それがどうにも更木剣八と剣を交えた記憶がないそうで。斬りあいになったこともおとがめなしになっているようですし」

「そうか。……。あれの願いはかないそうにないな」

 天原家当主の妻であり、北の方と呼ばれる女性が十一番隊舎を自ら訪ねてから一年以上がたっている。あれから定期的に訪ねてくる度会の娘の顔を思い浮かべながら、天原家当主は顔を歪めた。

 あの娘が娘の紗那でないことくらい彼も重々承知している。度会家が貴族の地位を保ち続けるためにめぐらせた奸計だとしても、彼は壊れていく妻を見ていられなかった。何より消えてしまった自分の娘、紗那と瓜二つの娘とあってはどうしても捨て置けない。

 彼女が成長していくたびに紗那も同じように成長したのか、もしくはまったく違うように成長したのか。そんな不毛なことを考えてしまう。それが娘の重荷になっていることだって承知の上だが、彼は妻の精神の健康と自分のささやかな幸せのためにこれを無視していた。

「四十六室の更木に対する心証にかこつけて暗殺依頼を納得させ、あの娘に課したまではよかったが。まさか、泣き寝入りするどころか十一番隊に馴染み実際に行動に移すとは」

 更木剣八暗殺任務をかせば泣きついてくれるのではないかと思っていた。死神などやめて帰ってくるとばかり思っていたのに、まさか任務成功は無理であると実証するにまで至るとは。

 紗那が死神になると言ってきたのだ、と自分に言ってきた妻の顔が脳裏にちらつく。

 否定せずに応援するとまで言っていたが、その心のうちは言うまでもないだろう。本当の娘だと思い込んでいる北の方にとってはまさに身を引き裂かれる思いだったに違いない。

 だから彼はこの計画を裏で仕込んだのだ。こうすれば死神などやめて帰ってくるだろうと。

「度会の者は血の気が多く気が強いものが多いとは聞いていたが、ここまでとは」

「よい、私とて彼らのそういった性質を笑い飛ばしたのだ。…そろそろ、潮時なのかもしれぬな。あの娘には自由を返すべきだろう。私も、ようやく整理がついたよ」

 疲れ切った笑みを浮かべる主に部下は悲痛に顔を歪めたのち、恭しく叩頭した。しかし、当主は知らなかった。彼の言葉のすべてを部外者が聞いていたことを。そしてこれが悲劇の始まりになることを。



 木刀を握って沙夜は深く息を吐いた。大粒の汗があごをつたって板張りの床に滴り落ちる。いつもつけている目隠し布はとっており、久しぶりに萌葱色の瞳が日の光を受けていた。

 沙夜は早朝の道場で、深く呼吸を繰り返しながら正眼で木刀を構えたまま制止し続けている。

「おーす、どうした?」

「あ、班目さん! いや、度会のやつが…」

「あん?」

 いぶかし気に道場を覗き込んだ一角は目を見開いた。開け放たれた扉の向こう側には触れれば切れるような張り詰めた空気がある。その中で沙夜と更木がお互いに正眼に木刀を構えて睨みあっていた。

「…何やってんだ、あの二人」

 ようやく声に出せたのは、そんな誰にも答えられない疑問だった。


 その前日、人もまばらになった道場にやってきた更木は沙夜が同じく道場に入ってきたのを見つけて口角を上げた。するとくるりと沙夜が更木の方を向く。

「隊長、前に戦闘行為および稽古は禁止だと言われていませんでしたか?」

「…チッ」

 確かに言われた。

「…根比べならしても大丈夫だと思いますよ?」

 あまりにも更木が複雑な顔をしていたからか、沙夜の方から提案してくる。根比べ、というのがいまいちわからず首をかしげると懇切丁寧に説明を始めた。

「まずお互いの正面に立ちます。木刀を構えて睨みあいをします。先に目をそらしたり構えを崩した方が負けです」

 真剣でも木刀でも斬りあいができないことは不満だが、暇つぶしにはなりそうだと更木は早速木刀を構えた。沙夜は今からするの、と困惑したものの大人しく従う。

 そうして二人は木刀を構えたままお互いに睨みあうことになった。


「て、言うことがありました!」

「なんじゃそりゃ」

「ふーん、ということはあの二人昨晩からずっとあの調子で睨みあってるの? どんな体力してんだか」

 形はどうあれ更木隊長が勝負をしている、ということで邪魔にならないように小声で話しながら一角たちは道場の中の様子を見守っていた。

 よくよく見れば更木にも汗がにじんでおり、ともすれば手汗で木刀が滑って落ちるのではないかと心配になるほどだ。一方の沙夜も同じはずなのだが、誰一人として彼女の心配はしなかった。

「隊長、頑張ってください」

「度会のやつさっさと木刀を落としちまえよ」

 ひそひそと交わされる言葉に美しくない、と顔をしかめつつ弓親は二人の勝負の行方を見守っていた。


 時刻が昼過ぎになっても二人の勝負は続いていた。噂が噂を呼んで他の隊からも見物人が集まり始めていた。

「いやぁ、あの子やっぱり貴族なのか怪しいほど泥臭いことするね」

 見物人の一人である京楽は前の方に陣取って酒を飲んでいた。沙夜の足元はすでに滴った汗で水たまりができている。すさまじい集中力だが、このままでは体力的に更木に軍配が上がるだろう。

「さてさて、どっちにせよ更木隊長と剣を構えたままここまで向かい合っていられるってのはすごいことだよねぇ」

 僕なら無理かも。そもそも自分がそんなことをする、という光景が京楽には思い浮かべれなかったが。

 結局、決着がついたのは夕刻になってからだった。

「……」

「……」

「……。…ぁ」

 手汗で木刀を滑り落としてしまった沙夜の負け、ということで勝負の幕は下りた。

「…ふん、なかなか楽しめたぜ」

 荒い息をついて座り込んでしまった沙夜のあごを掬い上げるようにして持ち上げ、柔らかな色の瞳を覗き込む。勝負中に自分に向けられていた強い光はもうなくなっていたが、それでももうしばらくこの瞳を見ていたかった。

 沙夜としてはもう疲れてさっさと目を閉じて意識を飛ばしてしまいたかったのだが、なぜか更木の目からそらすことができない。意地になっているのか、あるいは他になにかあるのか。

「はいはい、そこまでだ。さすがにもう休ませてあげなよ、疲れ切ってるじゃないのこの子」

 最後まで見物していた京楽がまたしても睨みあいを始めようとした二人を止める。そこで沙夜の意識はとんだ。


「いやぁ、接吻の一つでもするのかと思ったよ」

 ヘラヘラと笑いながらそんなくだらないことを言っている遊び人を無視して、更木は沙夜を脇に抱えて立ち上がった。

「おや、どこへ行くんだい?」

「帰るんだよ。風呂にはいりてぇし、腹も減ったしな」

「その子を連れて?」

「なんか文句でもあんのか」

 珍しいものを見たと言わんばかりに目を開いて質問攻めにしてくる京楽を鬱陶しげにあしらいながら更木は道場を後にした。

 更木は確信にも似た何かを得た気がしてたいそう機嫌が良かった。記憶の奥底に眠っていた夢と、現実が結びついたような感覚に心の底が震える。

「なぁ、やっと見つけたぜ」

 自分の脇に抱えられてなお眠りこけている沙夜をらしくない目で見下ろす。

 沙夜が提案してきた根比べは、かつて『やさしんぼ』が更木に提案した遊びの一つだった。懐かしさと同時にもしかしたら、と希望的観測がはたらく。

 もしかしたら、目の前に立つ死神があの日に出会った『やさしんぼ』かも知れない。

 根拠もなければ確証もないそれは、けれど更木の中ではストンと納得のできるものだった。髪の色が変わっていようが、性格が変わっていようが、自分のことを忘れていようが、そんなことは関係ない。

 気にはなるが一番重要なのは沙夜が『やさしんぼ』であり、自分が会いたいと願っていたということだけだ。

「かすりもしねぇ名前つけやがって。分からなかったじゃねぇか」

 もはや沙夜がやさしんぼであることは更木の中では確定事項のようで、当然のように口をこぼす。

 名前に関しては更木も似たようなものなのだが見事に棚上げしている。だが、口調はあくまでも穏やかで不自然なくらいに優しい目をしていることもあって責めているようには感じられなかった。

「…はやく、お前も思い出せ」

 あの日果たせなかった約束を。迎えられなかった明日があったことを。

 戦の時とは違う種類の上機嫌な心を抱えながら更木はやちるが待っているであろう屋敷へ帰っていく。脇に抱えられた沙夜が小さく唸った。


 けれど、更木のひそかで大きな願いがかなうことはなかった。

 それからそう時間がたたないうちに沙夜は尸魂界から姿を消した。史上まれにみる大罪人の烙印を押されてなお、往生際の悪さを発揮して現世に逃げおおせた彼女を擁護するものは誰もいなかった。

 天原家と度会家はそれからすぐに衰退し、貴族であったことさえすぐに忘れ去られた。

 更木に残されたのは彼女が常日頃身に着けていた髪留めだけだった。


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