飢えた獣をつなぐのは
□複雑な家庭事情
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沙夜が護廷十三隊に入隊して初めて迎える春。やちるの遊び相手に初めて指名された日からもうすぐ一年がたとうとしている。
沙夜は今日もいつも通りやちるの遊び相手になっていた。最近は追いかけっこに飽きたのか、かくれんぼをよくしている。とはいっても見つかったら走って逃げだすので追いかけっこ自体は今もやっていることに変わりはなかったりするのだが。
「草鹿副隊長! どこですかー? ふくたいちょー!」
本当は聞こえてくる音で隠れているところはわかっているのだが、すぐに見つけては楽しくないだろうと沙夜はわざと見当違いなところを探していた。
クスクスと正反対の方向から笑い声が聞こえてくる。今初めてそれに気づいたというように沙夜はくるりと体を回転させて塀の向こう側へ目を向けた。
「副隊長ー? 草鹿副隊長ー!」
そういって塀の向こう側に顔をのぞかせるとピンク髪がチラリとのぞいていた。くりっとした瞳が沙夜を見つけて大きく開く。
「見つかっちゃた! にっげろー!」
楽しく無邪気に笑ってやちるがその場から駆け出す。またいつもの鬼ごっこが始まりを告げた。
「あ、ちょ、待ってください、副隊長!! 今日は追いかけっこはなしって言ってたじゃないですか!」
珍しく追いかける側に回ったことに戸惑いを覚えながら、とりあえず文句を言いながらやちるを追いかける。どこへ向かったのかは音ですぐにわかるからいいとして、果たして捕まえられるだろうか。
困ったようで楽し気な声と無邪気な笑い声が今日も瀞霊廷に響いている。それは何よりも平和であることの証であるように思えた。
一方、十一番隊の隊舎に珍しく客人が訪れていた。
対応した死神はとにかくどうすればいいのか困惑していたが、礼儀を失するようなことがないように気を付けなければならないことだけはわかっていた。
「あ、あの…今日は一体十一番隊へどのようなご用件で…」
「…わたくしの」
あまり使われていなかった薄汚れた応接室で顔をしかめながら豪奢に着飾った女が渋々というように口を開いた。まるで下賤の民と直接口をきくなど嫌で仕方がないというように。
埃っぽい部屋の中の質素な椅子に座っているせいで高価な布で作られた繊細な衣装を施された着物が汚れていることに気づいて、女はさらに嫌悪を強めていた。
「…やっぱり、あの子にこんなところは似合わないわね」
小さくつぶやかれた言葉は誰にも届くことはなかった。
応接室の隣の部屋で一角たちは耳を澄ませていた。突然現れて押しかけてきた貴族の女が居座ってはや半刻。目的もわからず、誰かを待っているようだがその相手が誰なのかもわからない。隊士たちの中に貴族の女を知っているものはおらず、心当たりのあるものもいなかった。
「どういうつもりだ? あの女」
「しっ、たとえ僕らでも貴族に睨まれたらどうしようもないんだから変なこと言わない!」
「けどよ。…副隊長がいなくてよかったかもな。不敬罪とかわけわからねぇいちゃもんつけられそうだし」
確かに。深く頷いて弓親はこれからどうすべきかを思案する。
あの貴族が待っているのはいったい誰なのか。それが分からない限りはどうすることもできない、と結論付けてとりあえず心当たりのある人物を探すことにした。
「けど、今どこにいるのかなあの二人」
先日はついに瀞霊廷から流魂街に飛び出してまでかくれんぼと追いかけっこをしていたらしいし、この間は流魂街の魂魄と遊んでいたという報告もあげられている。つまりいくら霊圧探知ができるとはいえすさまじい速度で移動する二人を捕まえるのはなかなかに骨が折れることだ。
屋根の上に乗ってとりあえず霊圧を探ってみるとかなり離れたところから目当ての霊力を感じる。
「いっそのことさっさと帰ってきてくれたらいいんだけどね」
そういって屋根から飛び降りようとしたところに聞きなれた声が下から聞こえてくる。
「あ、みっちー! こんなところで何やってるの?」
「副隊長?! え、さっきまであっちに…」
「うん、でもさっちゃんが隊舎に戻らなきゃっていうから投げたの」
よく見ればやちるの足元には虫の息な沙夜が転がっている。
「ふ、副隊長」
「なーに?」
「つ、次は、一言、いって、くだ、さいね」
とぎれとぎれに聞こえてくる言葉や体勢から察するに突然やちるに投げ飛ばされたらしい沙夜は頭から血を流しながら少し強めの口調で抗議した。やちるはどこ吹く風だがそれはいつものことなので放っておく。
「戻らなきゃって何かあったのかい? えっと」
「度会です。いや、北の方様の音が聞こえたので慌てて戻ってきたところなんですけど、隊舎の中にいらっしゃいますか?」
北の方様。それが誰なのかわからなかったが、おそらくあの貴族の女だろうと推測した弓親はうなずいた。
「あぁ、珍しいお客さんだってうちのやつらも浮足立ってるよ」
「あはは、すみません。…なるべく早くお帰りいただけるように頑張ります」
頭から流れる血をぬぐってトボトボと隊舎の中へはいっていく沙夜について行こうとしたやちるを抑えながら、弓親はあまり期待せずに待つことにしようと決めた。
応接室に入る前に身なりを整えて深呼吸を数回繰り返し、意を決してドアを開けた。部屋に入ってすぐに見えた女性の顔は、以前あった時よりも痩せこけてしまっているように見えた。頭を下げて挨拶を述べる。
「お久しぶりにございます。顔も見せず、便りも出さなかったこの不孝者をどうかお許しください。しかし、このようなみすぼらしく野卑下賤の集う汚らわしい場所へおいでになられるとは」
「よい、よいのだ。シャナ。私の愛おしい子。さぁ、私にもっとよく顔を見せておくれ。母に愛しき我が子を抱きしめさせておくれ」
鳥かごの中に誘うかのように女の腕が伸びてくる。沙夜は一瞬体を硬直させて後ずさろうとして、すぐにそっと諦念と共に目を閉じた。
私が初めて北の方様とお会いしたのは度会家当主である叔父上に連れられて天原家を訪れた時だった。何があっても拒絶を示すことも、否定を口にすることも許さないと事前に言われたときは何をされるのかと戦々恐々としていたのだが、すぐにその意味を理解してあきれ果ててしまった事を覚えている。
「…紗那?」
私の顔を一目見て北の方様は目を見開いて呆然としていた。次いで発せられた爆音に意識が遠のきかけたことはよく覚えている。困惑、拒絶、歓喜、そういった感情がたくさん強く絡み合って恐ろしく巨大かつ複雑な音を構成していた。人とはここまで大きく心を揺らすものなのだな、と妙に感慨深くなったんだっけ。
「…はい、シャナにございます」
叔父上から発せられた音から何となく察した私は自然とそう言っていた。その時の北の方様の喜びようと言ったら普通ではなかった。まるで二度と会えないと思っていた愛おしい者との再会を果たしたような喜びように、私はようやく自分が一体何をさせられ何を言ったのか理解してうすら寒くなった。
後から知った話だと、北の方様はかねてより娘が欲しいとおっしゃっていたそうだ。そして念願の待望が叶ってついに御令嬢がお生まれになった。なのにその命は履かなくも数年で途絶えてしまわれた。北の方様はショックのあまり心を病んでしまわれたらしく、体裁を保つためにも軟禁状態に置かれているらしかった。
そこで計略を練った叔父上がそのお亡くなりになった御令嬢と偶然瓜二つだった私を身代わりに差し出しお家復興を目論んだのだ。貴族の地位から転げ落ちる一歩手前で何とか踏みとどまっていた度会家は、何とか崖っぷちに立っていられるだけの猶予を取り戻した。天原家ほどの上流貴族の家に出入りを許すには形だけでも貴族であることを保証しなければならなかったからだ。
結果、叔父上は私を利用して貴族の地位を守った。けれど私は度会沙夜である自分を否定され、シャナであることを強要される。それが嫌で私は死神になったのに。
「あぁ、シャナ。私の愛おしい娘」
なのに、なぜこんなところにまであなたは来てしまったのですか。
「…母上、私もお会いしとうございました。しかし、私は今護廷十三隊に勤める死神。世界を、ひいては母上をお守りするために常に研鑽に励んでいる身にございます。どうか広く深い心で私のことを見守ってくださいませ」
「いやじゃ」
「母上…」
「いやじゃいやじゃ! そなたは私と共にいたくはないのかえ? 私はそなたと一日たりとも離れたくなどない。そもそも死神なぞになる前からそなたはめったに私に会いに来なかったではないか。そんなに母がうっとうしいかえ?」
どんどんと膨らんでいく冷たく痛々しい音に絆されてしまう自分が情けなかった。
「いいえ、そんなことはございません。明日、必ず家に参ります。だからどうか今日はお戻りになってくださいませ。私一人が母上を独り占めしてはご当主様にも恨まれてしまいます」
「…そうかえ? 必ず、必ずじゃぞ」
「ええ、必ず。私は約束を必ず守ります。それは、母上が一番よくわかってらっしゃるはずです」
「そう、そうじゃな。そなたは言葉を違えたことはなかったな。よかろう、今日は帰るとしよう」
ゆるゆると立ち上がった北の方に付き添おうとした沙夜をお付きの者が遮る。
「お見送りは結構です、紗那様。己が務めをきちんと果たされますよう」
沙夜はそれに無言でうなずくと、北の方が部屋から出ていくまで深く頭を下げた。
と、お付きのうちの侍女が一人、残ったままなのに気づいて顔を上げた。何かあったのだろうか。そう思って口を開こうとした瞬間、頬に鮮やかな痛みが走った。乾いた音から察するに張り手を受けたのだろう。
「卑しい度会の小娘が! お前なんか虚にでも食われてしまえばいい!!」
頬を上気させて肩をいからせている侍女に何を言うわけでもなく、沙夜はまた深く頭を下げる。それしか自分にはできない、とでもいうかのように。
侍女を探してきたのか、お付きの一人が現れて侍女を引っ張っていく。最後に応接室のドアをくぐる前に沙夜にちらりと視線を向けた。
「すべてはお前次第だ」
「…万事、心得ております」
低く物騒な音をさせながら去っていったお付きの侍女たちがいなくなった途端、沙夜はその場に座り込んだ。重々しく肺の中の空気をすべて吐き出す。張り飛ばされた頬は赤くもなんともなっていなかった。
隣の部屋で聞き耳を立てていた弓親と一角は顔を見合わせていた。やちるはすでに応接室の中へ入っている。
「随分嫌われてるね、彼女。なんだか複雑そうな事情もありそうだしうちに問題を持ち込まないでくれるといいんだけど」
「だな。貴族連中相手だと楽しく戦うなんてのもねぇだろうし」
十一番隊にはあまりにも不似合いな話に弓親はため息をついた。聞いてしまったからどうというわけでもないが、少しだけ同情する。
応接室からは聞き耳をたてずともやちるの楽しそうな話声が聞こえていた。