海月の夢見た世界

□あり得ない真実
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クライアントからの電話……そんなもの、もちろん嘘だ。ルリア・ナイトレイを、彼女と関係のありそうなイルカの前で1人きりにする為の。

電話をかけているふりをしながら、物陰からルリアさんの様子を伺う。すると、すぐに彼女は何かに気づいたような反応をして水槽へと近寄った。
彼女の目の前には1頭のイルカ。そのイルカは他と違い、広い水槽内を移動することもせずに彼女の前で静止している。そしてルリアさんも、イルカと見つめ合うかのようにその場に佇んでいた。
時折、イルカの口がパクパクと開く。

そこだけ時間が止まったような錯覚に陥ること十数秒──イルカが高い声で鳴き、その場で綺麗な旋回を決めて見せる。するとどういうわけか、水槽内にいた他の2頭のイルカもルリアさんの前にやってきた。

イルカショー用の広い水槽の中、彼女の前に全てのイルカが集まる確率が一体どれだけあるだろうか。それも、一時的ではなく、その場に3頭とも留まる確率が。
その光景は、もはや普通ではなかった。その証拠に、当のルリアさんは気づいていないようだが、このフロア中の視線がイルカを独り占めする彼女へと向けられている。
彼女にイルカを惹きつける何かがあるのか、それとも──。

ルリアさんとイルカは、しばらくの間お互いだけを見ていた。まるで周囲の空間から、自分たちだけが切り取られたかのように。

周囲が干渉できない異様なその空間は、イルカたちがそれぞれの口先を水槽のガラスへと近づける動作によって終わりを迎えた。
ルリアさんはそれに一度だけ迷ったような仕草をして、けれどすぐ、片手をガラスへと触れさせる。そこへ、ガラス越しではあったがイルカたちが触れるような動きを見せて──それはさながら、神聖な儀式の一幕のようで。

「綺麗……」

誰が言ったか、フロアの中からそんな声が挙がった。

監視対象であったはずの彼女。けれど不覚にも、僕も周囲と同じ感想を抱いてしまった。それほどに、ルリア・ナイトレイは綺麗だったのだ。
そして胸の奥で、気のせいだと思うことにしていた感情が再び燻り始める。いつかルリアさんの笑顔を見た時にも感じたそれを、もう偽れないかもしれない。

僕は、ルリア・ナイトレイという女性を好いている──。

こんな感情、この国を守ろうと決めた時に忘れたはずだった。この国と大切なものと、どちらか一方を選ばなければならない時が訪れないように。
大切なものを次々に失った、あの思いを再び繰り返さないよう、これ以上「大切」を作らないようにしていたのに。人とは、人の感情とは、得てして思い通りにはならないものだ。

ルリアさんはもう、僕の「大切なもの」になってしまっている。それが変えられないのなら、僕にできることは1つ。
彼女がこの国の脅威ではないと、そのたった1つの事実を証明することだけだ。ルリア・ナイトレイが一般市民であることを。

その為に、今の状況を正確に分析する必要がある。
いくら水族館で飼育され人に慣れたイルカといえど、水槽内の全てのイルカが特定の来館者の前へと来る確率は極めて低い。最後など、3頭それぞれが明らかな意思を持って動いていた。

その時、イルカを見つめるルリアさんの唇が僅かに動いた。音としてはここまで届かないものの、咄嗟に読唇術でその内容を読み解くことはできた。

「……"ありがとう、レイン"……」

「レイン」とは、目の前の水槽にいるイルカの内、1頭の名前である。雄のそのイルカは、確か先程のショーでも出演し、その際に自己紹介がされていた。
けれど、ルリアさんはどうして目の前のイルカがレインだとわかったのか。他の2頭とレインの違いは些細なもので、トレーナーとして日々接しているか、僕ら探偵のようによほど観察していなければわからないだろうに……。

同時に思い返されるのは、初めて彼女を見た日のこと。誰もいない海岸線で、イルカの形を模したもやと共にあった彼女。
そして毎週日曜日になると、決まってホームセンターへ人工海水の素を買いに行く彼女の行動。

そこまで考えて、僕の頭には到底あり得ない仮説が浮かんでいた。そんな馬鹿なことがあるかと、自分自身を叱責する。
だが、あの世界的な名探偵、シャーロック・ホームズの名言にもあるのだ。あり得ない、なんてことはあり得ない。

When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.
(不可能なものを除外して、それがどれほどあり得ないことでも、残ったものが真実である。)


ルリア・ナイトレイはイルカと話せる──という真実。
人工海水の件はまだ分からないが、イルカのもやが隣りにあったのはこれが理由と考えられなくもない。

だがこればかりは、風見に話しても信じてもらえないかもしれない。そう思うと、思わず自嘲するかのような笑いが漏れた。



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