海月の夢見た世界

□気づいてしまった気持ち
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促されるままに乗せられた安室さんの車。運転する彼の横で、私はピクリとも動けないまま座っていた。
車は迷うことなく進み、私のマンションの前に止められる。

「もう、気を張らなくても大丈夫ですよ」

それまで沈黙を貫いていた安室さんが、不意にこちらへ話しかけてきた。気を張る、とは、一体何のことだろう。

「あっ……」
「ほら、指先だけがこんなに冷たい。緊張して、気を張っていた証拠です」
「そ、んな、こと……」

安室さんが、杖を握ったままだった私の右手を両手で包み込む。決して強くはない彼の指に誘われ徐々に開いていく私の指先は、確かに彼の言うように冷たくなっていた。
トラックの中でもこれほど冷たくなることはなかった。ならば安室さんの言うように、私は気を張っていたのだろうか……。

解いた私の右手から杖を取り出し膝上に置くと、今度は左手もとって温めるように包む。冷え切った指先がじんわり暖かくなっていくのに比例して、どんどん視界がぼやけていく。
自分が泣いていることに気づいたのは、温かいものが頬を伝わってからだった。

「な、んで……?」

なぜ涙なんかが溢れてくるのか。そんなことの必然性はどこにもなかったはずなのに。
答えが見つからない私の頭に、安室さんの手がそっと乗せられた。

「頑張りましたね」
「っ、……」
「本当は怖かったのでしょう? けれど子供たちの手前、自分がしっかりしていなければと貴女は思った」
「え、あっ……わ、たし……!」

怖かった。
安室さんのその言葉を認識した途端、両手が小刻みに震え出す。けれどその手を、彼の片手が力強く包んでくれる。

「貴女の判断は正しかった。子供たちの様子から見て、今回のことが特にトラウマになるようなことはないでしょう」
「……ほんとう?」
「はい。よく頑張りました。でももう、終わりにして良いんです。だって、僕がいるんですから」

もう、良いのだろうか。本当は怖かったって、あの場から1人だけ逃げ出したかったって、そう思っても。

そうだ、本当は怖かった。遺体を見つけた時も、腕を掴まれた時も、トラックに閉じ込められた時も、助けが来ないかもしれないと思った時も。魔法を、使わなければならないと思った時も。
だけど私は唯一の大人で、残りはたった7歳の子供たち。閉じ込められて心細いのはどう考えてもあの子たちの方で、彼らのため、私には努めて焦らず穏やかな姿勢で構える必要があった。
何度かそれが崩れたことは否めないけれど、それでも、彼らの負の記憶として今回のことが残らなければそれで良い。そう思って、最後に別れる時も極力笑顔で手を振った。

けれどそれを、安室さんはこの短時間で気づいていたという。だから私を、私だけを、こうして乗せて送ってくれたのか。

「あ、むろ、さん……」
「はい」

どうして、気づいてくれたの。気づかないフリをしていてくれれば良かったのに。

「あむろ、さん……」
「はい」

貴方に優しくされると、いつか聞いた貴方の言葉が、本心なんじゃないかって思えてしまう。あれは無意識のうちに発動してしまった、私の力のせいだと思っているのに。

「安室さんっ」
「はい」

ほとんど独り言、同じ単語を繰り返すだけのそれに律儀に返してくれる安室さん。堪らずその名を呼びつつ抱きつけば、両手を温めてくれた時と同じように優しく包んでくれた。
その腕の中の暖かさと吸い込んだ彼の匂いに、止まることを知らない涙が更に溢れ出す。

子供たちを守らなければ。私は、こんなところでは死ねない。
そんな思いで杖を取ったあの時も、本当は震えるほど怖かった。誰かに、助けに来て欲しかった。
そしてその「誰か」は、ほかの誰でもない、安室さんであって欲しかった。

「安室さん、」
「はい」

なんで。どうして。そんな疑問ばかりが浮かぶ。
名前を呼ぶだけで、それに応えてくれるだけで、こんなにも嬉しく安心できるなんて。

「安室さん……っ、」
「はい。何ですか?」

違うはずだったのに。気づかないはずだったのに。気づいては、いけなかったのに。
この感情につける名前を、私は知っているだなんて。

私は、安室さんが好きなんだ。

「安室さん、」
「はい」

私には、貴方を恋しく思う気持ちがあるようです。けれど同時に、貴方に全てを知られた時、どんな感情を向けられるのか恐れる気持ちもそれ以上にあるのです。

ただ名前を呼ぶだけで、その後の言葉が続けられない。私はやっぱり、こんなにも臆病だ。
こんな人間が子供たちを守ろうだなんて、烏滸がましいにも程がある。先程までの私は、なんて滑稽なことを考えていたんだろう。

ああ、神様。いるかも知れないこの世界の神様。
私の願いを叶えてくれるのならば、どうかこの想いを私の中から消してください。決して叶うことのない、この惨めな感情を。



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