海月の夢見た世界

□人工海水
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蘭ちゃんから人工海水なるものの存在を教えてもらった翌日。バイトが休みであるこの日、私はホームセンターへとやってきていた。
数階建てのビルの中にあると聞いたその店に入って初めて、建物全てがホームセンターなのだと知った。上から下まで、分野別にフロアを分けているらしい。
あまりの広さに、早々に自力で探すのを諦めた。

「あの、」
「っ!?」
「? ……良いですか?」
「……あっ、はい。何かお探しですか?」
「ええ。人工海水っていうのを作れる塩が欲しいのだけど……」

店に入って店員を捕まえる。
食材や日用品の買い出しで学習したことだが、慣れない日本語表示を頼りに目当てのものを探すより、店員に聞いた方が圧倒的に早い。今回のような新しい店、それも、かなりの広さがある店ならなおのこと。

「こちらが人工海水の素になります」

店員に案内された場所にはいくつもの袋入りの塩が並んでいて、どれを使ったら良いのか全くわからない。どの袋にも「人工海水」という同じ文字があることから、どの塩を選んでも間違いではないのだろうけれど。

「……これ、一袋でどのくらいの海水を作れます?」
「こちらに書いてありますよ。これは150リットル、こっちが200リットル。あっちの大袋だと600リットルの海水が作れます」
「……バスタブの半分ってどのくらいの量になりますか?」
「バスタブ? ……えーと、それなら150リットルがオススメですね」

店員が、最初に説明してくれたものを一袋取って渡してくれる。この袋1つで、バスタブ半分の海水が作れるらしい。
比較対象にバスタブを出したことに不思議そうな顔をしていたが、特に詮索されることもなく、私は塩を片手に自宅へ戻った。

早速バスタブに水を張って、買ってきた人工海水用の塩を入れる。溶けやすい塩だと店員が言っていた通り、その塩はすぐに水に消えていった。
指先を水に入れて舐めてみる。少しだけピリッとくるような塩っぱさと、豊かな海の栄養分を含んだ甘さが口に広がる。
ここは紛れもなく自宅のバスルームで。けれど、目の前のバスタブは、こちらへ来てから始めて触れる「海」だった。

ああ、やっと海に触れあえる。
洗面所に衣服を文字通り脱ぎ捨てて、逸る気持ちのまま海水を張ったバスタブに浸かった。両手で掬い上げて一口含む。そのままゴクリと飲み込めば、下半身が淡く青紫に光ってその形を変えていく。

「はぁ……気持ちいい……」

二股に分かれていた足が1つの尾びれとなり、腰から下は鱗で覆われる。腰から先端へ向け、青から紫へと徐々に色が変わっている尾びれは、気に入っているママと同じ配色だ。
久々に感じる水の心地良さ。何をしても拭えなかったここ数週間の疲れが、水に溶け出すかのように一気に抜けていく。
パパの持っていたヒトの血より、ママのセイレーンの血の方が色濃く表れている私。やっぱりこの姿の方が私にとっては自然体なんだと、今の自分の姿を眺めると改めて思わされる。

目を閉じれば、ここ数週間の出来事が浮かんできた。
気がつけば病院のベッドの上で、自動車事故にあったと聞いた。警察が言う事実と噛み合わない記憶に記憶喪失だと診断され、私を心配したコナン君には働き口を紹介してもらった。
その繋がりで新たな人と出会って、文字を教えてもらって。そして、あの人とも。

ここは異世界の日本。イギリスへ行っても魔法界はないし、この世界のどこへ行っても魔法使いはいないのだろう。当然、セイレーンもいない。
私のことを知るヒトが1人もいない世界で、この先を生きていかなければならない。

「……それでも、私は生きてる」

あの時、この記憶が途切れる前。死を覚悟したこの体はしかし、今もなお息をして、心臓は脈を打っている。
疲れ切って、逃げ場もなくて、追い詰められたあの時。隠れて、追われて、逃げる生活もこれで終わるのならと、自ら命を絶つことを選択した。
けれど、本当は怖くて。ここで死にたくないと、もっとやりたいことがあったのだと、そう思ったことも嘘じゃない。

「ママは、この海で生まれたの。そしてルリア、貴女も海で生きることができるのよ」

眼下に広がる真っ黒な海を見下ろして、思い出したのはママの言葉だった。
陸を捨て、海で生きる。それも私のできる選択の1つだったのだけれど……私は、両親との思い出の残るこの陸で生きたかった。

杖を自身の胸元に向け、崖の淵ギリギリに立って海を眺める。どうせ死ぬのなら生まれたその場所へ戻ろうと決め、私は一歩を踏み出した。
落下中に口にしたのは、魔法界で禁忌とされる呪文。それは、その呪文を口にするだけで投獄され、終身刑を宣告されるほど。
杖の先から放たれた緑色の光が胸に当たって……そこから先の記憶がない。

どうしてこの世界へ来たのか。それはわからないけれど、あそこで終わらなかったことに、今があることに感謝している。
精一杯、この場所でヒトとして生きれたら良いと思う。

また明日からも頑張ろう。
そう決意して、真水を飲み、再び人型へなるために蛇口をひねった。



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