海月の夢見た世界

□偏った記憶の欠陥
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《……なくなったものについては大丈夫です。きっと、なるべくしてそうなったんですから》
《ですが……!》
《本当に大丈夫です。教えてくれて、ありがとうこざいました》

右耳に入れたワイヤレスイヤホンから聞こえる会話に、仕事をしつつ耳を傾ける。どうやら、一つ目の話には決着がついたようだった。

今から少し前。
酷く憔悴した様子でポアロにやって来た高木刑事を、ルリアさんと共に奥の休憩室へと促した。突然頭を下げ謝罪の言葉を口にした時は驚いたが、そのおかげで、ルリアさんもほかの客も意識がそちらへ向いており、誰にも僕の細工は気づかれなかった。
当人に至ってはそんな余裕もなかったようで、対面しているにも関わらずだ。

休憩を勧めてルリアさんに渡したドリンクのトレーに、小型の盗聴器を仕込んだ。
高木刑事の慌てようから彼女に関わる重要な話を聞けるかと思ったが、これは予想以上だ。

遺骨が消え、遺留品から個人情報を示す部分が消え、一国のデータベースから一家全員の戸籍が消える。
先の2つについては警視庁で預かっていたもので、その紛失は警察の不祥事であり、警察に対する世間の信頼が揺らぐことに繋がるだろう。特に、天涯孤独な彼女にとって、両親の遺骨の紛失は大きいはずだ。
加えて、イギリスで戸籍が消えたということは、今の彼女は無戸籍、無国籍。本来なら保障される権利がなくなり、この国にいることも難しくなる。戸籍がないということはつまり、存在そのものがなかったことになっているのだから。

けれど彼女の中では、それらは仕方のないことと、既に消化されているようだった。ルリアさんが落ち着いていて、高木刑事が焦っている。会話を聞いているだけの僕にさえ、どちらか当人かわからなくなるほどに、2人の反応は本来あるべき姿と正反対だった。
気にかかるのは、「なるべくしてそうなった」という彼女の言葉。個人情報について、消えたのではなく最初からなかったようだと言われてから、彼女の態度がほんの少し変わった気がする。もしや、その理由に心当たりがあるのだろうか。

《……わかりました。当人である貴女がそう言われるのなら……》
《はい》
《ですが、こうなってしまった以上、しなければならない手続きがあります。せめて、そちらについては我々の方で手配させていただきます》
《手続き……ですか?》

ルリアさんの声を聞く限り、彼女はことの重要性をあまり理解していないらしい。
戸籍がなければ正規の仕事に就けず、婚姻が認められず、選挙権もなければ、免許証や保険証も得られない。銀行口座の開設もできないから今の口座も使えなくなるだろうし、パスポートが取れず日本から出国できなくなる。
今の彼女にとっては、記憶喪失という目先の問題の方が大変なのかもしれないが、こちらも放っておいて良い問題ではない。

《はい、貴女の仮の戸籍を作る手続きです。委任状を用意しましたので、こちらに署名をしてもらえれば、後は我々の方で進めます。日本とイギリスと、どちらも一度は貴女のデータがあったことを確認していますから、そう時間はかかりませんよ》
《……わかりました。そういうことなら、お願いします》
《後、在留カードとかキャッシュカードとか、見せてもらえますか? もし同じように印字が消えていたら、そちらも作り直しますので……》

少し待ってくださいと言い置いてロッカーへ向かったらしい彼女が戻ってきたが、その心配は杞憂だったようだ。

《こちらは大丈夫そうですね。一応、我々の方でそれぞれの発行元に確認をして、今日中にまたご報告に伺います。後、念のため、アパートの管理会社の方にも》
《はい》

その会話を最後に、物音とドアが開閉される音が聞こえる。とりあえず話は終わったようだ。
奥から出てきた2人が、入り口の前で最初のように向かい合う。

「では、僕はこれで。お仕事中にお邪魔しました。後ほど、また伺いますね」
「はい。お願いします」

ポアロを出て行く高木刑事を見送って、ルリアさんは僕を振り返った。

「安室さん、休憩ありがとうこざいました」
「いえいえ。高木刑事とは、ゆっくり話せましたか?」
「はい、おかげさまで」
「そうですか。でも、また来るようなこと言ってましたよね。お話終わらなかったんですか?」
「いえ、話自体は終わりました。ただ、確認してもらうことがいくつかできたので、その結果を教えてもらうんです」
「なるほど。……ちなみに、どんな話だったか、僕に教えてもらうことはできますか?」

ここで彼女の口から聞ければ、一応許可を得た上で彼女の身辺を探ることができる。どこかでばったり遭遇した時、もっともらしい口実になるだろう。
先程までいた客も帰り、今店内に2人きりであるのは確認済み。なかなか話してくれそうにない彼女に、告白した日の言葉を思い出して促す。

「ポアロを訪れた時の高木刑事の様子から、貴女の身に、何か大きな問題が起きたのだと考えられます。一刻も早く貴女に伝え、解決しなければならなかったことなんでしょう」
「……そう、ですね」
「やっぱり。初めて話した時、貴女の記憶を戻す手伝いをすると約束しました。それだけでなく、何か困っていることがあるなら一緒に解決したいですし、悩みごとがあるなら話を聞きます。僕、これでも探偵ですから。それに何より、……ルリアさん、貴女の力になりたい」
「安室さん……」

僕に、話しても良いものだろうか。僕から視線を逸らし、考え込むような表情を浮かべる彼女。
しばらくの後、ためらいがちに彼女の口は開かれた。

「……実は、両親の遺骨がなくなったそうなんです。それと、両親や私に関するデータが、イギリスの方で消えてしまったらしいって……」

消えた遺骨と個人情報。それに伴う諸手続きと、高木刑事へ託した委任状。
掻い摘んで話してくれる彼女のそれは、先程、盗聴器越しに聞いていたものと概ね同じ内容だった。


ポアロでのシフト明け。セーフハウスに戻り、スーツに着替えてから風見と会うため登庁した。

「風見」
「降谷さん! お疲れ様です。どうされたんですか? 今日はポアロのはずでは……」
「ああ、少し調べて欲しいことがあってな。僕の部屋で話そう」
「わかりました」

実態が掴めるまでは、その事実を知る人間は少ない方が良い。周囲に人の気配がないことを確認し、風見と共に執務室へ入る。
そんな僕の様子で察したのか、風見の表情は引き締まっていた。

「とりあえず、これを聞いてくれ」
「はい」

風見に、昼間自分が着けていたワイヤレスイヤホンを渡す。そこに入っているのは、休憩室の2人の会話を盗聴しつつ録音したもの。
ちなみに、夕方再びポアロを訪れた高木刑事によって、両親の遺骨とパスポート、父親の免許証、イギリスにあった一家のデータ……これら以外のものには、今のところ異常がなかったことが伝えられた。

「ルリア・ナイトレイ、19歳。イギリス人。半月前、首都高で起きた乗用車爆破事件の被害者で、医者は記憶喪失だと診断している。事件当時はあったイギリス国内のデータが、今日の時点では消失していたらしい」
「……降谷さんが動くということは、単なるデータの消失ではないということですよね。彼女には組織との繋がりが?」
「いや、それはわからない。バーボンとして彼女に会ったことはないし、彼女のような人間の噂も聞かないからな。だが、少なくとも、彼女は普通の人間じゃない」

そう、彼女には何かしら秘密があるはずだ。

「と、言いますと?」
「安室としてポアロで働き始める前、偶然、海岸で彼女を見た。俄かには信じられない話だが……彼女の手元から白いイルカが現れたんだ。いや、イルカ型のもやと言った方が正しいか」
「イルカ型のもや……聞いたこともありませんが」
「僕もだ。だからこそ、脅威になる前に確認する必要がある。それと彼女の記憶喪失だが、ここ数日見ていた限りでは、電化製品や先端技術に偏っている。これは記憶喪失じゃない……例えば、閉鎖された空間で育ち、科学技術方面の知識がないという可能性もある」
「なるほど……その場合は、彼女の保護が必要ですね」
「ああ」

初めて見かけた時、彼女が脅威となるなら、その前に対処しなければならないと思った。けれど、彼女の偏った記憶喪失を見ているうち、別の可能性を考えるようにもなった。
それは彼女が、なくしたと診断された記憶を、元々持っていなかった場合。すなわち、何らかの理由で外界と隔たれて育った人間……端的に言えば、監禁などが考えられる。
後者だった場合、早急に彼女を保護し、同じような境遇の者も探し出す必要がある。

「刑事部の方にある控えデータを、秘密裏に入手しておいてくれ。それから、時間がある時で構わないが、彼女のことを可能な限り調べて欲しい」
「了解しました」

彼女の調査は、僕の方でも引き続き探りを入れつつ、ひとまずは風見の方に任せておけば良いだろう。



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