海月の夢見た世界

□欠落した大衆論理
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「灰原、彼女のことどう思う?」
「……彼女? ああ、ルリアさんね」

ルリア・ナイトレイ。
先の自動車爆破事件の被害者の1人で、その事故により記憶をなくした女性。彼女の症状を、医師は部分健忘型の逆行性健忘と診断した。事故より過去の記憶、その一部が抜け落ちているということだった。

両親が残した家はあるものの、この国で頼れる人も場所もない彼女。そんな彼女にポアロでのバイトを紹介した俺は、学校帰りに探偵団の奴らとポアロを訪れた。
そこで気づいたのは、ルリアさんが日本語の読み書きが出来ないということ。習った記憶が本人になくとも、事情聴取も病院での俺たちとの会話も問題なく日本語でしていた彼女。当然、読み書きもできると思っていた。

それは本当に何げなく、注文を取る彼女を見ていた時。彼女の手元の万年筆の動きが、あまり途切れていないように見えたことがきっかけだった。その手元を覗き込めばやはり、メモには筆記体の英単語が並んでいた。
探偵団の奴らの発案で、その後、ルリアさんに日本語を教えることになった。

学校帰り、ルリアさんに初めて文字を教えにポアロへ寄った時、梓さんから彼女がお金の数え方を忘れていたと聞いた。
他にも、それがそうだと気づけなかったのか、しばらく電話が鳴っていても取らなかったことがあったらしい。梓さんの話では、少し慣れてきたものの、苦手なのか、基本彼女は電話を取らないそうだ。
梓さんに話を聞いていると、ルリアさんの記憶の欠陥は、日常生活に関わることにまで及んでいることがわかった。
お金も電話もそうだが、ポアロでバイトを始めてから万年筆を愛用する彼女は、ボールペンを不思議そうにしていた。客が持ち込むパソコンや携帯を、観察するように見つめていることも多い。

「そうね……年上の女性にこう言うのは失礼かもしれないけれど……彼女、常識がないと思うわ」
「やっぱそうなんだよな……高木刑事に聞いてみっか」

ルリアさんの中に、どれほど一般常識であるはずの記憶が残っているのか。それを知るため、退院直後の彼女の様子を知っているだろう高木刑事へ連絡を取った。

「退院した時のルリアちゃんの様子?」
「うん、何でも良いんだ。何か気になったことない?」
「そうね……車や電車を不思議そうに見てた気がするわ」

高木刑事に連絡すると、退院後、ルリアさんに付き添って彼女の家へ行ったのは佐藤刑事だと教えられた。そのまま佐藤刑事が電話口で答えてくれる。
スピーカーにして、隣の灰原にも聞こえるようにした。

「後、家電の使い方を教えたわよ」
「家電?」
「そう、テレビとか。電子レンジ、掃除機に洗濯機……ルリアちゃんの家にあった家電。ああでも、ガスコンロはなんとなくわかったみたい」

ガスは覚えていて、電化製品の使い方を覚えていない。そんな記憶喪失があるのか。
けれどそれなら、電話の話は梓さんの話と繋がる部分がある。

「これは退院前の話だけど……コナン君たちが帰った日の夜、彼女、暗くなっても部屋の電気をつけなかったのよね」
「それで?」
「暗かったから私がつけたんだけど、その時の彼女、とても驚いたような顔をしてたわ。スイッチを押すと明かりがつく、そのこと自体を忘れちゃってたんじゃないかしら」

暗くなっても明かりをつけなかったのは、その方法を知らなかったから。そう考えれば彼女の反応に辻褄は合うが……彼女は電気を忘れたのか。それとも、もともと電気がない、あるいはあっても必要としない生活を送っていたのか。
彼女の両親は科学者で、彼女も同じ研究所で働いていた。おそらく不老不死の研究をしていたのだろうが、その資料は火事で残っていないし、そもそも、研究所に電気がないなんてことは考えられない。
なら、やはり記憶が欠落しているのか……。

「ルリア姉ちゃん、お金の数え方も忘れてたみたいなんだけど、その時お金はどうしたの?」
「それなら、彼女の家に行く前に銀行に寄ったわよ」
「ルリア姉ちゃん名義の口座があったの?」
「両親のものが彼女の名義に変更されてて、暗証番号も心当たりがあったみたい。予め偽の研究データを用意するくらいだもの、預金口座も娘の名義に変更してあったのね」

ルリアさんの両親は、自分たちが殺されることを予期していた。だから研究データを隠滅し、犯人の手に渡らないようにできた。なら口座の名義を、殺される可能性のある自分たちから娘に変更しておくのは不自然なことじゃない。

「でも、下ろし方は教えたわよ。窓口はもちろん、ATMならカードでどこからでも下ろせるって話したら驚いてたわ」
「え、イギリスにもATMあるよね?」
「ええ。だから、それも忘れてたんでしょうね。……そういえば、お金を下ろすって言った時、"金庫の鍵を持ってないから"って言ってたんだけど……どういう意味だったのかしら?」
「金庫の鍵……ありがとう、佐藤刑事!」

日本と違い、イギリスは建物の壁や駅の構内にもATMがある。佐藤刑事の話が本当なら、彼女は街中にあるだろうATMを一度も使ったことがないということになる。
子供ならまだしも、19歳で、既に働いている彼女ではそれは考え難い。結論、ルリアさんはATMの使い方を忘れているということだ。

先の話と一致するのはやはり、ATMが電子機器であるということか。彼女は、電気のない環境で生活していたのか。はたまた、その部分の記憶が集中的に欠落しているのか。

「……電気がない環境で研究を進める科学者って、お前どう思う?」
「何を研究してたかにも寄るかもしれないけど……あり得ないでしょうね。命を狙われるほどの高度な研究なら尚更、最新鋭の機器が揃っていたと考えるのが普通よ」
「だよなあ……」

灰原の意見はもっともで、俺も同じ考えだ。後で聞いたところ、隣の家で俺たちの会話を盗聴していた昴さんもまた、同意見だと言っていた。

「……彼女が奴らの仲間って可能性は?」
「それはないと思うわ。ルリアさんから、あの嫌な感じはしないもの」

灰原はそう言ったが、彼女の不自然な記憶の欠落は、ある可能性を意識させた。
彼女は実は記憶喪失になどなっておらず、何も知らない一般人を装った組織の人間ではないのかと。それも、何らかの方法によって、極部分的に記憶を消した人間。
キールこと水無怜奈から、探り屋バーボンが動いているという情報を伝えられている今、その可能性もゼロじゃない。バーボンが誰かわかっていない現状では尚更に。



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