海月の夢見た世界

□世界の広げ方
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カランカランと入り口のベルが鳴り、続いて元気な声がかけられた。

「こんにちは、ルリアお姉さん!」
「……いらっしゃいませ、歩美ちゃん」

カウンターから声をかければ、こちらへ向けられる5つの顔。彼らは少年探偵団の子供たちだ。
私が遭遇したという事故の現場におり、車内の私の存在に最初に気づいてくれたのもこの子たちらしい。その縁で、目覚めた日の夕方、高木さんに連れられて病室を訪れた彼らと知り合った。

あの後、退院した私は、車に乗せてくれるという佐藤さんに連れられ、両親と共に引っ越したというマンションへ向かった。
両親の部屋と私の部屋、リビングダイニングのある新居にあったのは、私のものだと思われるたくさんの家具や服、小物。けれどどれも記憶にないもの。
唯一記憶にあったのは、私の部屋の中、ベッドサイドのチェストに伏せられた写真立てだった。刑事さんの手間、その場で見ることはできなかったけれど、1人になって起こした写真立ての中、幼い日の私と両親が笑顔で手を振っていた。

他人の家という感覚が強いそこで、私が一人暮らしを始めたのは1週間前程の話だ。

「ルリア姉ちゃん、もう慣れた?」
「少しずつ、ね」

そう問うてくるのは、ここ、喫茶ポアロでの仕事を紹介してくれたコナン君。彼は上の階に住んでいて、時々顔を出してくれる。
慰者(ヒーラー)……ではなく、医者とマグルでは言うらしいが、とにかくその先生から記憶喪失だと言われた私。記憶がなく、日本語の読み書きが出来ず、マグル社会の常識も欠落している私が働ける場所などそうなく、コナン君の申し出は本当にありがたかった。
目覚めたその日に友達と病室へ来た彼は、次の日には、ポアロのマスターに話をつけた上で再び見舞いにやってきた。私の事情をマスターに話し、持参した契約書類の内容を読み上げて説明してくれた。

「紅茶の淹れ方は私より上手だよね、ルリアちゃん」
「梓さん……でも、他のことはあまり……」
「その内できるようになるわ。お金だって数えられるようになったでしょう?」

同じポアロの従業員の梓さんは、何かと慣れないことの多い私に色々と教えてくれる親切な人だ。
ポアロで働き始めた頃、自分で言うのもなんだが本当に酷かった。特に最初の数日は。
生まれた時から人里離れた場所で暮らし、学校は全寮制、卒業後も魔法界で生活していた私には、マグルの世界は知らないことも多かった。

「お金? ルリア姉ちゃん、お金数えられなかったの?」
「そうなの。他にも色々ね」
「へえ……」

特に、たくさんの紙幣と硬貨、その組み合わせを覚えるのに少し時間がかかった。
魔法界では1ガリオンが17シックル、1シックルが29クヌート。硬貨3種類で終わるのに、ここが多すぎるのだ。
退院したその日、銀行に寄ってお金を引き出した時もその違いに驚いたものだ。トロッコでの移動も金庫の鍵も必要なく、窓口で全てが済むとは。マグルの使う紙のお金も見たことはあるが、実際に使ったことはなかった。
そんなことを思い出していると、歩美ちゃんが片手を大きく降りながら声を上げる。

「ルリアお姉さん! ここ座って!」
「学校で使ったひらがなのテキスト持ってきました」
「早くやろうぜ!」

歩美ちゃんが自分の隣に手招き、光彦君がカバンから出した薄めのテキストを掲げる。元太君も私を急かす。

「……梓さん」
「うん、じゃあルリアちゃんは少し休憩ね」

梓さんの許可をもらい、歩美ちゃん、光彦君、元太君にオレンジジュース、コナン君と哀ちゃんにはアイスコーヒーを準備して5人の元へ。グラスを並べ、一度奥へ戻ってノートと万年筆を取ってきて、歩美ちゃんの隣へ座った。

「最初はあ行ですね」
「上から順番に、あ、い、う、え、お、って読むのよ」

丸みを帯びた文字は、日本語の文字の一つで、ひらがなというらしい。他にも、カタカナと漢字と、3種類覚えなければならないのだと聞いた時は気が遠くなった。
この子供たちでさえ、3種類の文字を使い分け、組み合わせているというのだからすごい。あの時、医者が私に示した名刺の文字が全く分からなかったのも、まあ道理というわけだ。

そういうわけで、日本語での会話は問題なくできているのに、なぜか文字はさっぱりわからない。今の私は、話すことはできても読み書きは全くできない状態。
見かねた彼らが、私に読み書きを教えてくれると、放課後ここへ来てくれているのだ。

きっかけは、先週、ポアロへ来た彼らの注文を取った時のコナン君の一言。
手元のメモに慣れ始めた万年筆で注文品を書きつけていた。この万年筆は、いつも使っていた羽ペンの代用品として探したもの。度々インクを付け直さなくて良いなんて、マグルは便利なペンを思いつくものだ。
そんな私の手元を、コナン君が興味深そうに覗き込む。

「ルリア姉ちゃん、日本語書けないの?」
「……え?」
「だってそれ、英語で書いてるんでしょ? もしかして、メニューも読めてないの?」
「え、そうなの? ごめんなさい、私全然気付かなくて……」

病院で医者に診察を受けた時に判明した事実だったが、あの時一緒にいた刑事2人以外には知られていなかったらしい。その証拠に、日本語が話せることを知られているからか、マスターも梓さんも私が日本語の読み書きができると疑っていなかった。
疑いを持たない2人の手前、言い出しづらいものがあったのは事実。既に十分お世話になっている2人に、これ以上の迷惑をかけたくなかったということもあった。梓さんは謝ってくれたが、半分以上は自分の都合だ。
けれどこの子供たちは、そんな私に率先して教師役を買って出てくれたのだった。

「あ、い、う、え、お……」

控えめに声に出しつつ、ノートにひらがなを書いていく。
独特の丸みがある文字は少し書きづらくて、なんとか形になった感じ。それでも彼らは上手いと言ってくれて、いい子たちだと改めて思わされた。

「ねえ、歩美の名前書いてみて? あ、ゆ、み、だよ」
「ええ。……こう、かな?」

あゆみ。……げんた、みつひこ、こなん、あい。
ノートに増えていく名前は、私の世界が広がっていくよう。ドキドキと高鳴る胸の音が彼らに聞こえていないかと、落ち着けるために、笑顔の彼らの横でそっと深呼吸をした。



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