海月の夢見た世界

□重ならない記憶
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私は、ついに捕まったのか。その部屋を見て、最初に思ったことはそれだった。

白い部屋の中。そのベッドに、私は1人横たわっていた。視線だけを動かして、辺りを確認してみるが、最低限のものしか置いていない部屋には、やはり私以外誰もいない。
真っ先に脳裏を過ぎった最悪の可能性に体が震えたが、よく見れば手も足も拘束されていない。枕元のチェストの上には、サンゴの髪飾りと自分の杖が置かれていた。

「良かった……」

ママとパパの形見がそこにあることに、ホッと胸をなでおろす。起き上がって手にとってみても、どこも壊れていないようだった。
そこで、もう一つの可能性に気づく。杖が折られることもなく側に置かれているなんて、魔法使いではまず考えられない。ならばここは、非魔法族(マグル)の施設だろうか。

そこまで確認して、ハッとなって慌ててシーツをめくる。視界に入った下半身は、病衣の上からでもしっかり二股をしているのがわかった。
こちらも、大丈夫だ。最後の記憶から、最悪の可能性も考え一瞬血の気も引いたけれど、二股であることにホッと安堵の息をついた。

そこに、不意に響くノックの音。そして「失礼します」との女性の声。
未だ眠っていると思われているのか、返事を待つことなくドアが開かれた。

「気がついたんですね」

入って来たのはスーツ姿の男女だった。
杖を取られていなかったとは言え、彼らが魔法使いである可能性は捨て切れない。杖を持つ手に力が入り、見極めようと彼らを見つめた。
沈黙と視線に耐えられなくなったのだろう、男性の方が口を開く。

「えーと……」
「…………」
「たくっ……はじめまして、ルリア・ナイトレイさん。私は警視庁の佐藤、彼は高木、2人とも刑事です」

しかし男性の言葉は続かず、呆れたように名乗ったのは女性の方だった。
刑事。それは育ての親でもあるリーマスから、少しだけ聞いたことがある。確かマグルの、犯罪者を捕らえたりする人間のことだ。

「いくつか伺いたいことがあるんですが、よろしいですか?」
「……はい」
「昨日の事故のこと、どのくらい覚えてますか?」
「……事故?」

昨日の事故、とは何のことだろうか。
佐藤さんの言葉に首を傾げる。もしや、あの時崖から飛び降りたことが、転落事故と思われているのか。

「覚えてない? 昨日、貴女とご両親の乗った車が事故にあって……車が炎上したんです。目が覚めたばかりの貴女に、これを伝えるべきではないのかもしれないけれど……ご両親は、車の中から焼死体として発見されました」

けれど、続けられた言葉に、彼女と私の認識がかなりズレていることに気づいた。
昨日車に乗った記憶などない。そもそも、ママが死んだのは5つの時。パパが死んだのは7つの時。両親との別れは、もうずっと昔の話だ。
それに2人は、車の事故なんかで死んだわけじゃない。今回の事故も故意に起こされたものらしいけれど、あれは、もっと欲望と嫌悪にまみれたもの。

「……車に乗った記憶はないし、パパもママも、もうずっと前に死んでます」
「ずっと前って……どのくらいですか?」

今度は高木と名乗った男性の刑事。

「2人とも、10年以上前に」
「10年前……? そんなはずないですよ。ね、佐藤さん? 僕たち昨日、彼女とご両親の入国を確認してるんですから」
「そうね……。ルリアさん、確かに、入国履歴は昨日の日付でした。それについ最近まで、ご家族でイギリスの研究所に勤務してたことも確認が取れているんです」
「……そんな。私が、パパとママと、研究所で働いていたっていうんですか?」
「ええ。私たちの調べでは、貴女も、ご両親と同じ研究所の職員だと判明しました。覚えてませんか?」

昨日付けの入国履歴なんて、そんなものあるわけがない。だって、私は生まれてこの方、イギリスから出たこともないのだから。
最後の記憶だって、間違いなくイギリスだった。

それに、私の勤務先は魔法省。その中の、魔法生物規制管理部存在課だ。ヒトに近い魔法生物たちの管理、支援をする部署。
確かにパパは、魔法薬学者で魔法薬の研究をしていた。私も学生時代の得意科目は魔法薬学と薬草学で、パパと同じ道を目指した時もあった。けれど、共に薬学研究者として働くことは叶わなかった。

「……いいえ」
「そう……でも、日本語とても上手ね。何度も来日したことがあるみたいだから、ご両親と一緒にイギリスでも勉強してたのかしら。その辺りはどう? 思い出せそうですか?」
「……私、今、日本語を話してるの?」
「え、ええ……そうだけど。気づいてませんでした?」
「…………」

沈黙。それが私の衝撃を表す、何よりの答えだった。
もちろん、日本語なんて勉強したこともない。それなのに、今の私は彼らの言葉を理解し、また日本語で彼らに返しているらしい。
知らないはずのそれがわかる。もう、何が起きているのかわからない。

全く状況の理解が追いつかない私を見かねて、佐藤さんと高木さんは癒者(ヒーラー)だという男性を連れてきてくれた。

「貴女のお名前は?」
「ルリア・ナイトレイ」
「イギリスの首都はどこですか?」
「ロンドン」

自分のこと、両親のこと、日常生活に関すること。ヒーラーにいくつかの質問をされたが、その中には知らないこともあった。それらが所謂、マグルの常識というものなのだろうか。

「テレビをつけてください」
「…………」
「では、これで電話をかけてみてください。こちらが病院の番号です」
「…………」
「この病院の名前は読めますか?」
「……いいえ」

最後に差し出されたカードは、おそらくヒーラーの名刺。そこに並ぶ読めない文字を見て、私が日本語を話しているという刑事さんの話を信じざるを得なくなった。
この文字は、日本や中国のものだったか。

「ナイトレイさん、貴女の症状は、部分健忘型の逆行性健忘だと思われます」
「……ぎゃっこー、けんぼー?」
「逆行性健忘、所謂記憶喪失です。昨日の事故の衝撃で、事故やそれ以前の記憶の一部をなくしているのでしょう。また部分的にですが、日常生活に関する動作においても欠陥が見られます」

記憶喪失。首を傾げる私に、ヒーラーはそう繰り返した。

「私、忘れてなんて……確かに、目覚める前までイギリスに、いて……」

最後の記憶を思い出して、つい、言葉がつまる。私はあの後どうなったのか。それを説明しようとして思いとどまった。私でさえ、疑ってしまうことだったからだ。
それに、そのことを話せば、私自身のことを詳しく話さなければならなくなる。
私の様子から何かを察してか、ヒーラーは極めて穏やかな口調で言った。

「お気持ちはわかります、ナイトレイさん。ですが、何かのきっかけで自然と思い出すことも多いですから、焦らず、ゆっくりと思い出していきましょう」
「早く記憶が戻るよう、私たちも協力します」

佐藤さんがそう言って微笑む。
ここがどこかもよくわからなくて、多くを忘れていると言われて。そんな中で向けられた笑みは、暖かく心に広がった。
もし、ここにはマグルしかいないとしたら。私を知る人間が、いないとしたら。生まれた時から願いつつも叶わなかった、穏やかな生活を送れるチャンスかもしれない。

「明日、軽い検査を受けていただきます。問題なければ数日で退院できますよ」
「……はい」
「住む家はあるし……後は、どこか働ける場所を探さないとかしら。何か希望はありますか?」
「……特には」
「わかりました。では、僕たちの方で何か良さそうなものを探してきますね」
「……ありがとうございます」

さっき会ったばかりの私のことを、こんなに気にかけてくれるなんて。そう思った時には、そんな言葉が口をついていた。
人間は怖い生き物。だけど、この場所で、もう一度信じてみたいと思った。憧れ続けた人間社会で、ようやく生きていけるかもしれないのだから。



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