夢卜アレキサンドライト

□愛護の温度
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「朱音ちゃんがいた……? まさか、あのマンションに?」

降谷さんの目が、信じられないとこちらを向く。松田が首を縦に振って肯定した。

「だけど、マンションの住民の避難は完了してたって記録にはあっただろ?」
「それに、彼女の家はここ。建物の状態や生活の様子、地理的要因を考えても、当時あのマンションに住んでいたようには……」

諸伏さんが脳裏の記憶と照らし合わせるように降谷さんに問う。それに、降谷さんも是と答えた。
それにしても、うちへ来てからの短時間で1年以上はここに住んでいるという結論に至った降谷さんの観察眼が恐ろしい。

「こいつはあの日、住人の避難完了後にマンションへ侵入したらしい。そして爆発時、あのフロアにいた。自分だけじゃなく、萩原とあの場にいた数人の機動隊員、その全ての人間の命を守った」
「そんなことが……可能、なのか?」
「俺も思ったさ。だが、実際のところ死者はゼロ、負傷者も全員軽傷。そういうことだろ」

降谷さんも諸伏さんも、状況を飲み込むのには時間がかかるだろう。すぐに納得した松田や萩原の方が異常なのだ。

「その時、萩原が新緑の森のような香りを嗅いだらしい。たまたま入ったカフェの定員から、同じ匂いがして気づいたってわけだ」
「あいつは犬か……?」
「なるほど、それで痴漢なわけか。確かに初対面で匂いを嗅いでくる奴なんて、セクハラ警官以外にないな」

降谷さんが呆れて息を吐き、諸伏さんは苦笑しながら頷いた。

「詳細は聞いてねえ。けど、朱音がハギの命の恩人であることは事実だ」

松田から、こんな風にその言葉を聞いたのは初めてだった。
そこには、言い知れない重みがあって。恩を売りたくてやったことではないけれど、彼らにはそれほどのことだったということで。

「……そうか。このこと、伊達は?」
「知ってる。別件で朱音のことを調べた時に、話の流れでな。あいつもたまにカフェに来てんだろ?」
「ええ。ナタリーさんと一緒にね」

2人がデート場所に、よくうちのカフェを利用してくれている。その度に話をする仲にはなった。

「……朱音ちゃん、」

降谷さんから、真剣な声色で名前を呼ばれる。

「萩原を救ってくれてありがとう。お礼が遅くなって申し訳ない」
「俺も。遅くなってごめん……ありがとう、俺たちの同期を助けてくれて」
「……どういたしまして」

それぞれから言われる感謝の言葉は、何度耳にしても擽ったさがあって慣れることがない。
話もひと段落着いたところで、そうだ、と諸伏さんが私を見た。

「朱音ちゃん、」
「はい」
「俺たちにも敬語なしで話してよ。な、ゼロも良いだろ?」
「ああ、構わない」
「……2人が良いのならそうするわ」

セクハラ警官認定した松田や萩原と違い、降谷さんと諸伏さんは真っ当な方法で出会った。そんな提案をされるとは思わなかったが、元々上下関係に煩わしさを感じる身としては気が楽だった。

「さて、事情聴取も終わったことだし……僕らはそろそろ行くか?」
「ああ。戻ってやらなきゃいけないことも残ってわけだしな」

降谷さん、諸伏さんが揃って席を立つ。しかし、同期と一緒に帰るかと思った松田が行動に出ることはなかった。
それを見て、諸伏さんが松田に問う。

「松田はどうする?」
「俺はもう少し話がある。先帰ってくれ」
「わかった。……じゃあ朱音ちゃん、またね」
「ええ。米花駅前のcafé sakura、良かったら寄ってみて」
「ああ、ありがとう」
「今度寄らせてもらうよ」

そうして松田を残し、2人は家を出て行った。
急に静かになった気がするリビングで、ダイニングテーブルを挟んで松田と2人きり。降谷さんたちがいた時と、少しばかり空気が違った。

「……俺の心配は、杞憂だったみたいだな」

最初に口を開いたのは松田だった。

「……まあ。ストーカーの1人や2人、私の敵じゃないもの」
「みたいだな」

そこらの男1人、何なら念能力も持たないこの世界の人間。そんな相手、私には何の障害にもならない。

「……怒鳴って悪かった」

……けれど。一昨日、松田があれほどまでに苛立っていたのには理由があったようで。この場にいる理由を問うた時のことを思い出す。

「……心配、してたの?」
「あ?」
「さっき、そう言ってたでしょ」
「まあな」

カフェで松田と言い合いになった時、彼は確か「そういう問題じゃない」と言っていた。私には力があると言っても、そうじゃないのだと。

「……誰かに心配されるなんて、久々だわ」
「そうか。……それと、」
「?」
「いや、何でもねえ。俺も帰るわ」
「えっ……ちょっと、松田!」

何かを言いかけて。けれど言わないまま、松田は足早に立ち上がると真っ直ぐに玄関へ向かってしまった。
それを慌てて追いかける。

「それと、何よ。気になるじゃない」
「何でもねえっつったろ。忘れろ」

問い質しても答えない松田。リビングからさほど距離のない玄関への時間はあっという間で、早々に靴を履いて出て行く。
私も追いかけて家を出て、門の向こうへ行きそうな松田の腕を掴んだ。

「待って、」
「……」

腕を引かれて止まりはしたが、松田はこちらを振り返りはしなかった。当然、戻って来ることもない。
けれど私も、この手を放す気はなかった。

「……そんなに知りたいかよ」
「ええ、」

折れたのは松田の方だった。
長いため息を吐いて振り返ると、ゆっくりと腕を掴む私の手を解く。次の瞬間、話す体勢に入った松田に油断した私の手を、逆に松田が引いたことでバランスが崩れた。
そのままその両腕の中に包み込まれる。

「……次は、尾行に気付いた時点で相談しろ。俺には関係ないことでもだ」

耳元へ届けられた、特別大きくはないが、迷いのない力強い声。続けて背後に回された腕の力が少しだけ強くなって、後頭部に数回温かな手のひらの感触。それから──、

「じゃあな」

松田が去り1人になったところで、自然と右手が頭へ伸びた。ゆっくりと触れた頭頂部に、まだ消えない感覚が残っている。
明らかに手ではないそれは、酷く柔らかく、そして温かかった。



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