短編(2BRO.)
□大人ってのは
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「いらっしゃい!」
数日後、本当に私は弟者の誘いを受けて兄弟の家を訪れていた。何も変わっていない、昔のままだ。遊ばなくなって少しした頃、この部屋が恋しくなってもう行くことはないんだろうな、と思っていたがまた来れるなんて。
「何緊張してるの?ソファー座っていいよ、お茶用意するね。」
部屋に入り、鞄を持ったまま立ちっぱなしの私を見て弟者が噴き出した。確かに何度も出入りした部屋だし、我が物顔で入り浸っていた前の私では考えられないくらい緊張していたのも事実だった。誤魔化しの言葉を強く叩きつけながら、ソファーに座るとそこから見える景色さえも懐かしくて、胸がとても傷んだ。このソファーでよく4人でゲームをしたものだ。ふと、見覚えのある銘柄のタバコがテーブルの上の灰皿に入っているのが見える。ドキリ、と嫌な汗と共に心臓が跳ねる。
「レイ?どしたのーーー」
その時、弟者が冷たい麦茶を用意して傍によってくる。私の視線の先に灰皿があるのが見えて、慌ててグラスをテーブルに置きそれを拾い上げた。
「ねえ、ゲームする?最近のゲームやってないでしょ?レイの好きそうな泥臭いゲームいっぱい出たんだよ。」
再びキッチンに引っ込みながらごく自然に話を続ける弟者は、本当によく気が回る人間だと思う。私も特に“その事”には触れずにソファーに背もたれ「どんなの?」と笑顔で返した。戻ってきた弟者はお菓子の袋を手に、私の隣に腰掛ける。ふんわり香った懐かしい匂いに泣きそうになった。
「弟者、抱き締めていい?」
「何でえ?!」
ケラケラ笑いながら弟者はゲームのパッケージをいくつか出して来てくれて、夜になるまで二人でゲームをした。近所迷惑になるくらい騒いで、仕事ばかりの満たされない日々がつまらない物に思えるくらいに楽しい一日だった。帰る時間になれば、兄者が丁度帰ってきてせっかくだから、と夜ご飯までご馳走になった。
「コイツ、久しぶりにあった時スゲー顔してたんだぞ。」
「え?なんでなんで?」
「ボロボロのヨレヨレでさー、マジ幽霊だったわ。」
「仕事忙しかったんだもん!」
「だから辞めなってー、レイなら転職できるよー。」
正直、弟者の意見も一理ある。この仕事が落ち着いたら、転職をしようかと考えているのだ。その理由はやはり仕事が辛いのと、時間が取れないこと、強いてはこの兄弟と約束が取り付けづらいことだ。弟者は昔から私のことをまるで妹のように面倒を見てくれていて、それは今も変わらず暇さえあれば連絡を寄越してくれる。そして予定を合わせようにも仕事が理由でなかなか合わないことを私も歯がゆく思えてきたのだ。
「俺の伝手で仕事紹介してやろうか?」
「いいよー、私そんなに仕事できないしさ。仕事辞めて少しの間ゆっくりするのもいいし。」
「そうなったら遊び放題だねえ!」
「お前はそればっかりだな。」
そしてそれはそう易々と叶うものでは無いという現実を叩き付けられるのも早かった。2週間ほど過ぎた後に上司に退職願を見せると、作られた笑顔で冗談だろうと拒否されてしまったのだ。そして増えた仕事量はこれまでの比ではなくて、社内の誰もが私を気の毒そうに見る始末だ。……弟者の言う通り、この会社は真っ黒だったのだ。
『まだ働いてたのかよ、もう帰れよ。』
「そんなこと出来ないよ……。」
『何時に帰れんの?』
「まだ…。」
どうしても声が聞きたくて、でもこれ以上弟者に心配かけたくなくて、兄者の番号をプッシュすると兄者は真面目な声色で心配を露わにしていた。時計をちらりと見ると11時を過ぎている。もう寝る時間だったのかもしれない。
『明日は?何時出勤?』
「わかんない、けど…このままだと終わらないから、きっと朝早くに出勤しなくちゃ……。」
『なら尚更もう切り上げてこいよ。』
「駄目、上司が見張ってるの。」
『……ったく。』
ため息をつくと、兄者は電話を切ってしまった。唖然としていると携帯に短い着信音が響いて画面を見ると[30分後に駅な、1分でも遅れたらおついちに迎えに行ってもらうから。]と書いてあった。ぞわっと悪寒がして、慌ててオフィスに戻った私は急いで明日の準備をして上司に帰る旨を伝えた。
「仕事は片付いたのか?」
「持って帰ります、明日も早くに出勤して間に合わせますので…。」
「ふん、どうだかな。」
吐き捨てるように上司はそう言い、性根の腐った目線を私に流すと鞄を掴んでオフィスを出ていった。パチン、とオフィスの電気すら消して。
真っ暗な中取り残されて、私は完全に張り詰めていた糸が途切れた感覚に陥った。その場に自然と座り込み、俯くとぽたりと床に丸い影が落ちる。歯を食いしばり握った拳が痛い。私が代償にしたものはこんな物じゃ代わりにならない。私が欲しかったのはお金なんかじゃない。………皆と、おついちと一緒に笑って遊べる毎日だったのに。
「っ馬鹿、はやくこい!」
「…なに。」
駅へ行くと本当に兄者がいた。厚手のコートを脱ぎ、私にそれを掛けると髪を大きな手で撫で付けた。きっと兄者の言う“幽霊”状態になっていたのだろう。吸い込まれそうな程透き通り、それが一面に心配を浮かばせた兄者の目を見るとまた私は泣いてしまった。
「悔しい、悔しいよ、兄者…!私、何もしてないのに!なんでこんなに仕事押し付けられなきゃいけないの、この仕事は上司のなんだよ!これも、これもこれも!聞かなきゃわかんないようなものばっかだし、話し掛けるだけでため息つかれてー!………なんで…、なんで…私、働いてるの……?」
兄者の胸に飛び込み、分厚いそれに拳を打ち付けながら深夜間際で人が少ないのをいいことに思いの丈をぶちまけた。溢れる涙を兄者のシャツに押し付けてわんわん泣いた。今まで「大丈夫」と弟者に言ってきた反動だと気付くまで、私はたくさんの時間を要した。その間も兄者は黙って私の泣き声をその通り胸で受け止め、外に漏れないようにコート毎抱き締めた。
「帰るぞ、レイの家。俺泊まってくから。明日は俺休みなんだわ、俺とバックレようぜ。絶対楽しませるって約束する。仕事の事忘れれるくらい、もう行きたくねぇって心の底から思っちまうくらい楽しませてやるから。」
そう言うと兄者は私の仕事鞄をつかみ、中から書類の入ったファイルを取り出した。中身を確認し、ただの上司が作らせたくだらない会議書類だと分かると丁寧に細かく破ってゴミ箱へ放り込んだ。
「ほぉら、これだけでちょっとは明日仕事に行きたくねえだろ?」
にんまり笑う兄者は子供のようで、私も頬を涙で濡らしながら笑みを浮かべた。兄者は天才で、最強だ。
部屋に兄者を入れるのは思ったよりも緊張した。この部屋にはおついちさえも入れたことがない。遊ぶ時はいつも兄弟の家で、おついちと遊ぶ時はおついちの家だけだったからだ。
兄者は物珍しげに部屋に入ってから周りをキョロキョロと見回し、とりあえずはテレビ前のローテーブルのそばに座ると立ちっぱなしの私を見上げた。
「何してんだよ、自分の家だろ?さっさと着替えてこいよ。」
「あ、うん、そうだね……。」
弟者に席を促された時より恥ずかしい。ここの部屋の主のはずなのに、客人の方が堂々としていて何だかいたたまれなくなったのだ。直ぐに寝室に引っ込み、中身のなくなったカバンをおき、スーツの上着を脱ぐと浴室から音楽が聞こえてきた。慌てて脱衣所に駆け込むと兄者が出てきて。
「な、何?お風呂入るの?」
「入るだろ、お前?え、何、入んねぇの?汚ぇ。」
「いや、入るわ!」
兄者は私をからかい、くつくつと一人笑うと手招きをして見せた。素直に歩き寄ると洗面台の前へ腕を引っ張られる。そこに映ったのは何ともみすぼらしい、やつれた顔の女だった。後ろの鮮やかな青が眩しく思え、私の身体は白黒に錯覚するほどだった。
「すげー顔だろ?こんなんで駅前なんか歩いてみろ、ひったくりか変な兄ちゃんに連れていかれるぞ。お薬いりますかァ〜?なんつってな。」
「……お風呂、入る。」
「おう、ゆっくり浸かってこい。肌が赤くなるまで熱いのにな。そしたら肩揉んでやる。」
「え、嘘、兄者が?」
「何だよ、じゃあ逆にお前が俺の肩揉むか?」
「遠慮します。」
冗談だよ、と笑うと兄者は洗面所を出ていった。少ししてテレビの音が聞こえてきたから、私はそのままシャツを脱いで浴室へ入った。湯の張った湯船から湯気が立ち上る。シャワーを浴び、久しぶりに入る湯船にまた涙が出てきた。「お風呂ちゃんと浸からないと自律神経おかしくなるよ!」お母さんのような、愛おしい中性的な声が聞こえた。