夢小説

□メロスは友を救えなかった。(文スト/黒/織田作 太宰)
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メロスは友を救えなかった。




友の亡骸を抱え 唯一の存在を失った途方もない悲しみにうちひしがれながら
メロスは生きている。


無力な過去。無慈悲な世界。無音の空間。
引き留めた手に今一つの強情さがあれば。どんな巨大な岩をも動かさぬほど、確固たる自信と根拠と予感がそこにあった。彼は死ぬ。それは、皮肉にも 今まで生きてきた 黒と朱が踊る退屈に裏付けられたと同時に
彼の行動原理の一端もそれによって明かされる。
詰まりは マフィアの血黒。血は血を以て償われる。泥を吹っ掛けてきた相手には倍返し以上の報復を。
属するもの凡てが黒にどっぷと浸かるマフィアでは
ーー合理が骨組みとしてがっしりと釘打たれているマフィアでは、人間的で 社会的な、話したがりで噂話が好きな、大衆酒場が似合う 言い換えれば 庶民を纏うものから、先に死んでゆく。
皆、腹のうちにその凶器をひた隠しながら 人間に成りたいという人間的な欲望をずんぐりと肥太らしながら 冷徹無慈悲に確実に任務を遂行する一個の駒となって裏社会に在る。

「行くな」
理由もなにも、追撃は苦もなく云えた。筈だった。
簡潔明快、赤子でも分かる未来があった。
世間で彼と彼の関係をしるものがあったなら、十人中、八人は言うだろう、たった二文字で表せたその言葉。ーー轟々と燃え盛るストーブの前でなくとも、少しでも温度がある微温湯に浸かるものだったら 躊躇いなく 口から滑り落ちただろうそれは、
しかし、彼に向けて発せられることはなかった。
拷問をさせれば、真を吐かせる随一の手練とされたのに、その目は 詰まらない字面を滑り落ちるが如く 自身については酷く無頓着であったので、
測れなかったのだ。果して、自身と彼とは 世間一般の其れであるのか?そもそも世間とは何か?この世界で通ずるものか?冷血動物に温度はない。自分達の関係に果してその形容はどうだ?躊躇いが、虚を作った。隙に彼は行ってしまった。
彼は 友を引き留める唯一の、言葉、友 そのものを 彼に向かってはっきりと口に出す機会を見失って、その代わり 彼の上司にはー冷血動物の王たる端整な威厳と風格を持った男には 今までの世話代と辞表代わりにはっきりとその旨を伝えた。
お釣りは 恐らく 有り余る。
本人には云えぬもの、どうしてこの男には易々と 私の口は開くのか。横柄で軽々しい口が剽軽が忌々しくて堪らない。既知った風に 笑いを口の端に忍ばせたこの男も気に入らなかった。

この人は暴虐非道の王です!死肉を喰らい
組織のためなら犠牲を厭わぬ!たった一枚の紙片のために!人の命なぞ 赤子の手を捻るより簡単に散らすのです!

ああ、この体の中身を天陽のもとにぶちまけて
大衆面前で思いっきり叫んでやりたかった!

五臓六腑の 腸の襞まで 皺一つなく丁寧に広げ、純真無垢に 訴えたかったが、そうするには彼は汚れすぎていた。この世界に身を沈ませ過ぎた。
只すごすごと 銃の奥の目がこちらをにらむのを感じながら 腹のなかでは計画通りと嘲笑う上司の前を敗残の一兵が如く倦怠感と徒労感で重い身をずりながらも引き揚げ 早急に独断で配下を動かすしかなかった。動揺を悟られれば殺される。足取りはあくまで淡々と。自身がもどかしい。
なんと哀れな決別か。
感情は組織のなかでは不純物か?

恥の多い人生だった。借りなんて忘れてしまえばいい。酒を呷り、下らない話に茶茶をいれ 日頃のどうにもしようのない己を、その時だけは 世間に返しているようなきがした。生きている、一個と感じられた。短くも長い刹那だった。
彼に学んだことは 両手では抱えきれないほど
一息に呑み込むには無味乾燥を食べ生きながらえていた己には 嘔吐しそうに 味が強く強烈な一閃で、 よく咀嚼しなくては 只空転することも絵空事としてとることも可能なくらい風前の塵、混純土の草、汚水の蓮であった。
彼がいつも被っていたように記憶にも混じる
砂埃を 丹念に一粒ずつ取り除いていくのは
あぁ、なんたる根気のいることか!

目の前で銃弾が空を真っ直ぐ走って行った。
吸い込まれる様に 彼の胸へ着弾した。
その毛の如く、砂が朱に混じる。

倒れかかる彼を抱き起こせば 貫通した忌々しき弾がその場に合わず カロリと おもちゃのようなおとをたてた。いっそそうならよかったのに。
出血は拡がる。傍目でも、致死と分かった。

「まだ助かるかもしれない!だから...」
「聞け、太宰。」

分別のつかない 己の顔を 最期の力で此方へ向かせ
絶え絶えの息で 私が口の端まで上りつつ逡巡したその単語をするりと何でもないことのように言ってのけた友は 言いたいことは言ったからな、と一息。気恥ずかしさをまぎらわせるが如く 煙草を所望し事切れた。

唯一の友を得た途端、喪った。泣くべきだろうか。
己の 浅ましい自尊心が 世間と比べて悩み始める。
あとを追うべきか? 黒社会に君臨する、凡ての根源に復讐するか?其とも、この結末を知りつつも 傍観した彼奴か?いや、無力な自分自身か?
下卑た 算盤が 答えを弾くのを前に 太宰は算盤を踏絵んだ。

後には 激しい戦いによってポケットから吹き飛ばされた 銀紙と、無数の屍が 砂にまみれ朽ちる時を待つのみ。
鼠が一匹、チュウと鳴いた。
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