短編

□ボーダーライン
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 六時に目が覚めた。
 気怠い身体を引きずって、カーテンをやや乱暴に開け放つ。日差しが眩しい。南向きの部屋をあえて選んだわけではないが、ここまで太陽の主張が強いとうんざりする。この間なんか、昼間にソファでうっかり座ったまま寝てしまい、起きると足首から先が綺麗に日に焼けていた。それも左足だけが見事に。
 洗面所で顔を洗い、歯を磨き、髪を素早く整えた。朝食代わりのコーヒーを流し込み、テレビのニュース番組を眺める。もう少し眠れたのに、最近は嫌でも早く目が覚めてしまう。だがこれを歳のせいにはしたくなかった。

「最近キツいんだよ」

 古い友人で雑誌記者をしている松井と、居酒屋のカウンターでグラスを突き合わせたのは昨夜のことだった。偶然近くに居合わせたことを知って、軽く飲んでいこうと誘われたのだ。

「なにが」

「この仕事がよ。四十越えてやるもんじゃないな。ハードだし体力使うし。子供と触れ合う時間も減るだろ?だから内勤に回してくれって頼んでるんだけど、なかなかね」

 松井は至極憂鬱そうに、グラスの酒をちろりと舐めた。疲れたようにため息をもらす彼の横顔には、以前はなかった小さな皺が増えたように見える。

「……お前、老けたなあ」
 
「なんだよ、お互い様だろ。って言いたいけど、お前は全然変わってないな。歳も不規則な仕事も同じなのに、不思議だよな。独り身だから?」

「色々と自由だしな」

「お前、奥さんと別れて結構経つけど、誰かいい人いないの」

「いや……」

「なんだ、いるのか」

 口を閉ざす俺を見て、松井が更に詰め寄ってくる。少し下がりぎみの目尻がきらりと鋭く光るのを、俺は見逃さなかった。すっかり記者の顔になっている。

「いる、というか、まあ……」

「珍しく歯切れが悪いなあ。付き合ってんのか?」

「や、そうじゃないんだけど」

「じゃあなんだよ」

 松井は剥き出しの好奇心を隠そうともせず、カウンターに身を乗り出した。こうなってしまえば、もうお手上げだ。俺は渋々事情を話すはめになる。

「───は?付き合っちゃえよ」

 まるで解せないといった様子で、俺の話を聞いた松井は眉を寄せた。もしもその相手が男だと知ったら、こうもあっさりと受け入れなかったに違いない。───いや、或いは彼なら性別など意にも介さないだろうか。
 俺は松井の反応が気になって、女ではなく男だと告げてみた。

「……うん?なんだって?」

 一瞬硬直した後、松井はぐっとこちらに顔を近づけて、真剣な面持ちで俺の目を覗きこんできた。

「冗談……じゃないな。お前そんな嘘つかないもんな」

 納得したのか、骨ばった顎をさすりながらしきりに頷いている。それから彼は、俺が説明した内容を辣腕記者さながらの読解力でもって、「つまりはこういうことか」と素早く要約を始めるのだった。

「───それで、北村は悩んでるんだな。刑事って別に職場恋愛禁止じゃないよな?」

「そうだな。それで結婚してる同僚も多いし」

「まあ、そりゃ悩むわな。可愛がってた部下に突然好きって言われたらさ。それも男だろ」

 松井は両腕を組み合わせ、下唇を小さく噛んだ。何か考え事をするときの彼の癖だった。

「実際のところ、性別の問題はでかいよなあ。いくらお前にそういう偏見がないっていっても、いざ自分が同性とってなると、話は別だろ」

「……まあな」

「でも、迷ってるんだろ?」

「え?」

「返事、迷ってるんじゃないの」

「ああ、まあ……そうだけど」

「どうやって断ろうかって?後腐れないように無難な返事を考えてるとか」

「いや、そうじゃなくてだな」

「受け入れるか断るかで迷ってんのか。それってつまり全く脈がないってわけじゃないよな」

 核心を突かれた心地だった。松井の隙のない眼差しで見つめられると、自分が刑事であることをつい忘れてしまいそうになる。昔から妙に冴えた男だった。

「だってそうだろ?例えば俺が北村の立場だったら、申し訳ないが即答でお断りするけど。それがどんなに可愛い部下でも、男と付き合うっていう選択肢は俺にはないし……つまり、お前の中ではまだ揺れてるってことじゃないか」

「そう……いや、そうなんだよ」

 俺はため息を吐き、片手で額を押さえた。松井の指摘は全くその通りだった。

「何週間も頭抱えて悩むくらい、その彼はいい奴なんだろ。じゃあ、ゆっくり考えろよ。向こうには悪いが、待ってもらうしかない」

 それから松井は、わかってると思うけどと呟いてから、俺の肩をぽんと叩いた。

「重要なのはその延長にあるものを想像することだ。恋人とするようなあれこれが、その子とできるかどうかを」


+++
 

 斉木はいい男だ。
 忍耐強く、見えないところで努力を惜しまない。顔も良いから女受けはいいし、真面目で正義感が強く、人懐こくて勉強熱心で───長々と列挙したが、要するに斉木はいい男だ。
 
「ちょっと、なんですか。さっきから人の顔をじろじろと」

 怒ったような声色が、俺の思考を唐突に破った。訝しげな視線が斜め前からじっとこちらに注がれている。
 
「……えっ、なに?俺、見てた?」

「なに言ってるんですか。気が散るからやめてくださいよ」

 斉木はふんと鼻を鳴らさんばかりにそっぽを向いた。そんなに怒らなくても、と思いかけて、俺は小さく息を飲みこんだ。斉木の耳が真っ赤に染まっている。

「なんだ斉木。お前、反抗期か?」

 熊手ような手が後ろから伸びてきて、斉木の頭を鷲掴みにした。刑事部の中でも一番の巨体を持った飯田が、にやにやとからかうような笑みを浮かべて立っている。

「つんつんしちゃってどうした。北村の前ではいつもデレてばっかなのによ」

「ちょっと、やめてくださいってば」

 頭を乱暴に掻き回されて、斉木が非難の声をあげた。あの柔らかい髪が、鳥の巣のようにぐしゃぐしゃになっている。

「もう、なんてことするんですか。ちゃんとセットしたのに」

「ははは。更に男前になったんじゃないか?」

 目の前で繰り広げられる彼等のやり取りに、何故か俺の胸がちくりと疼いた。斉木は皆に好かれている。それはいいことだ。あいつは最初、俺達の中で悪い意味で浮いていた。その頃のことを思えば、今は随分と良くなった。皆から可愛がられ、刑事としても頼りにされている。それなのにどうして、気に入らないと思う自分がいるのだろうか。
 この不思議な感情に結論を出せないまま、俺は二人のくだらない戯れをぼんやりと遠巻きに眺めていた。


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