短編

□林檎と夏
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 目を閉じる。瞼の裏に、青白い光が輪になってちらついた。視界を閉ざしていても、太陽の残像は執拗にその場所に居座っている。仕方なく目を開けてみると、澄んだ青を背景に、燃え盛る太陽が嘲るように俺を見下ろしていた。その穿つような眩しさに瞳を眇める。外へ出れば、どこへ向かってもこいつに後をつけられる。いい加減うんざりだ。
 頭の中心が煮えたように熱い。何も考えられなくなりそうで、俺は苛々と舌打ちをした。いや、実際にはしていない。心の中でしたつもりになっているだけだ。一人ならともかく、今は隣に上司を伴っている。暑さでマナーを忘れるようでは、刑事という仕事は務まらない。

「斉木、大丈夫か」

 視界に影が落ちる。見上げると、黒い瞳がこちらを窺うように見つめていた。長身の彼は目の前に立っているだけで太陽の光を遮ってくれる。

「ええ、平気ですよ。倒れたら北村さんに介抱してもらうんで」

 俺は茶化すように口にして、無邪気に笑ってみせた。彼は「あっそう」と気のない返事をし、再び前を向いて歩き始める。影が消えて、また強烈な日差しが顔中に降り注いだ。その光に顔を顰めながら、思考を徐々に後退させていく。僅か二週間前、俺は大変な失態を犯してしまったのだ。
 酒に強くないことはある程度自覚していたが、いつもはあんなに饒舌にはならない。むしろ口数は減り、貝のように閉口するのが常だった。それがどうしてあの夜だけ、余計な口を滑らせてしまったのか。今考えても解せない。強いて言うならば、初めて飲みに連れて行ってもらって浮かれていたのかもしれない。きっとそうだ。
 ともかく、あれから二週間が経った。初めは後悔の渦に襲われ消沈しきっていた俺も、今では本来の調子を取り戻しつつあった。さっき言ったような冗談を返すことができるまでには、回復の兆しも見えている。多少の開き直りはあるかもしれないが、やはり関係を元の状態に戻すには、いつも通りに振る舞うのが一番の近道なのだ。
 当然完璧とはいかないだろう。ある程度の違和感は拭えない。それは自分で蒔いた種だ。甘んじて受け入れる。むろん、同じことを彼にも頼んだ。つまり俺に気を遣わず、できるだけ普段通りにしてくれと。だから一見すると、俺達の関係に変わったところは見て取れないだろう。しかし、確実に、変化は生まれている。それは互いにしかわからない程度の差異だが、違えようもない事実だ。
 例えば、あからさまな接触が減った。励ましで肩を叩いたり、子供にするように頭に手を乗せてきたりといった彼からの接触が、あの日を境にぱったりとなくなったのだ。それが彼なりの優しさだと俺は知っていた。過剰な期待をさせないための、微妙な距離の取り方。その気遣いが、今の俺には身に沁みるようにありがたかった。

「斉木」

 名前を呼ばれた気がした。いや、気のせいか。それにしても暑い。この季節の外回りは冗談抜きできつい。しかし刑事部の中でも俺はまだまだ若手で、実際に歳も若い。体力に自信がないとやっていけない仕事だし、この程度のことで音を上げてはいられないのだ。
 ああ、皮膚が熱い。焼け焦げてしまいそうだ。今日の最高気温は何度だったか。今朝見た天気予報では───違う、あれは昨日の天気予報だ。せめて、曇があれば。遮るものがあれば幾らかましになったかもしれない。
 日傘を差せる女性が羨ましい。男が持っちゃいけないルールなんて存在しないけど、日傘を広げている男が街にいれば、どうせ陰でこそこそと笑うんだろ。男のくせに、とか、女みたいだ、なんてうんざりするような常套句を使って。
 男が日傘を使って何が悪い。昔の人は普通に差していたって、何かで聞いたことがある。あの、有名なイギリスの俳優も、古い映画で日傘を差していたっけ。第一、男がどうとか女がどうとかって、なんなんだ。男は女を、女は男を好きになるのが当然なのか?そうじゃない奴は群れから弾き出されて、死ぬまで奇異の目に晒されなきゃならないのか?こんな馬鹿馬鹿しい"常識“とやらを作ったのが神様なのだとしたら、俺はもう一生無神論者でいい。

「おい、斉木、大丈夫か?」

 また声がする。あの、低くて心地の良い声。
 思考がめちゃくちゃだ。耳鳴りがする。熱い。身体が燃えるように熱い。アスファルトが揺れている。いや、揺れているのは俺自身か?足元が見えない。視界の両端から、真っ黒な影が迫ってくる。そうだ、ちょうど日陰が欲しいところだったんだ。
 先日現場で見た刺殺体───あれは酷かった。ああ、吐き気がする。頭が痛い。地面に何か転がっている。赤い。真っ赤な林檎だ。いつか、男も堂々と日傘を差すのが当たり前になる日がくればいいのに。


***

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