短編

□片道で猫が鳴く
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 タクシーのシートに斉木を放りこんで、俺は大きく息を吐いた。斉木の身体を強引に押しのけ、無理矢理空けたスペースに腰をおろす。

「おい。お前、家の住所は」

 タクシーの窓ガラスにぐったりと頭を預けている斉木に向かって、俺は声を張りあげた。

「おい、斉木」

 何度呼びかけても無駄だった。俺は舌打ちをし、斉木の皺一つないスーツの襟を掴んで乱暴に引き寄せた。上着の内ポケットに片手を突っ込み、財布を取り出す。無地のシンプルな黒の革財布。
 年の割に渋い趣味をしているなと思いながら、長財布を開く。カード類が並んでいる中から免許証を抜き取り、記載されている住所を運転手に告げた。車体が小さく揺れ、ゆっくりと発進していく。斉木はその動きがまるで不快だと言わんばかりに眉を顰め、低く呻いて俺の肩に寄りかかってきた。

「……お前、そんな下戸で今までよくやってこられたな」

 財布を内ポケットの奥に戻しながら、俺は半ば呆れて呟いた。自分達の周りは酒呑みばかりが集まっている。それもとんでもない酒豪だ。それが刑事という職業と関係があるのかはわからないが、俺も新人の頃は随分と鍛えられたものだ。おかげで今ではそれなりに酒に強くなった。しかしこのご時世、上司が無理に酒を勧めればパワハラなどと訴えられかねない。
 視線を斜めに落とした。柔らかな猫っ毛が視界の右端でふわふわと綿毛のように揺れ動いている。それを見て、俺は紫乃が飼っている猫を思い出していた。あの人懐っこさと毛並みがどことなく似ていなくもない。
 ───猫か。
 俺はふっと息をついて笑った。猫に例えられるのは面白くないだろうが、斉木の場合、その刑事らしくない見た目のおかげで捜査が円滑に動くことも少なくはないのだ。

「前までつけて大丈夫ですか?」

 運転手の声に、俺は斉木の頭から窓の向こうへと視線を転じた。前方に黒っぽいマンションが見えてきた。

「ああ、はい、お願いします」

 運転手にそのまま待機してもらうように頼んで、タクシーから斉木を引きずり降ろした。肩に担ぐ格好でマンションの入り口に進むが、オートロックのせいで足止めをくらってしまう。

「斉木、鍵どこだ」

 肩を揺すって訊くと、斉木は意味不明な言葉をもらして、上着の右ポケットに指を差し入れた。どうやら鍵を取り出そうとしているようだが、ポケットの中を探るばかりで一向に鍵は現れない。
 苛立った俺は、斉木の手を払いのけてポケットに手を突っ込んだ。一日で二度も他人のポケットの中身を無断で探る羽目になるとは。
 引っ張り出したキーケースの鍵でオートロックを解除し、エレベーターに乗り込む。途中、念を押して部屋番号を確認すると、斉木は目を閉じながら煩わしそうに頷いた。こんな夜更けに別の部屋に鍵を差し入れる真似など間違ってもできない。

「おら、着いたぞ」

 ドアを開けて三和土に上がると、自動センサーが反応してダウンライトが玄関を照らした。斉木に繰り返し呼びかけるが、応じる気配はない。それどころか微かに寝息すら聞こえる。このままここに放置しようかとも考えたが、風邪でもひかれたら困ると思い直す。俺はご丁寧に靴まで脱がしてやり、リビングまで運んでいった。ソファに寝かせると、斉木が口の中で何かを呟いた。不明瞭で聞き取れず、俺は屈みこんで口元に耳を近づける。

「……水」

「なに、水?はいはい、ちょっと待ってろ。勝手に開けるぞ」

 冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、斉木に手渡した。斉木はそれを緩慢な動作で口に含むと、唇の端から零れ落ちた水を手の甲で拭った。焦点の定まらない目でこちらをぼんやりと見上げてくる。俺は少し心配になり、腰を屈めて斉木と視線を合わせた。

「だいぶ酔ってたけど、平気か?」

「……はい」

 掠れた声は頼りなかったが、しかしはっきりと頷くのを見て、俺はひとまず安堵した。こいつもいい大人なのだから、後のことは自分で管理できるだろう。
 些か過保護になり過ぎたなと苦笑しつつ、斉木の肩を軽く叩いた。

「じゃあな。下にタクシー待たせてるから、行くわ」

 立ち上がろうとするが、何故か身動きがとれない。視線を落として気づく。斉木の指が、遠慮がちにシャツの袖を引いていた。

「なんだ。気分でも悪いのか?」

 斉木は口を閉ざしたまま、フローリングの上へ無造作に視線を投げている。ややあって、ゆっくりと左右に首を振った。気分が悪いわけではないらしい。

「すみません、俺……変なこと言って」

 恐る恐るといった様子で、斉木は口を開いた。部下からの突然の謝罪に、俺は少々面食らう。家まで送り届けさせたことに対する詫びならわかるが、彼の謝罪は何か別のことを意味しているようだった。

「変なことってなんだ」

「さっき……御崎さんの店で言ったこと全部です」

「ああ、それか」

 会話の全てをいちいち覚えているわけではないが、曲がりなりにも上司である俺に絡み酒をしたことを気にしているのだろう。斉木は飄々としたところがあるが、根は真面目な奴だ。酔って管を巻く人間など腐るほど見てきた。あの程度のことで、斉木に対する評価が変わる筈もない。

「気にすんな。刑事なんかやってりゃお前だってストレスも溜まるだろ」

「そういうことじゃないんです」

 斉木が言下に否定した。袖を掴む手に力が入る。

「俺、御崎さんに失礼なこと言っちゃって……」

「あの子はそんなことで怒ったりしない。大丈夫だ」

「だからなんです。だから余計に恥ずかしいんですよ」

 俺は首を傾げた。斉木の言いたいことがよくわからない。

「そもそも、北村さんが御崎さんのこと綺麗だとか褒めるから」

「どんな人だってしつこく訊いてくるから、答えただけだろうが。お前、さっきからなにをそんなにこだわってんだよ」

「別に、こだわってなんかないですよ」

 唇を尖らせ、拗ねたように零す斉木の肩を、俺は少しだけ力をこめて掴んだ。こいつの言いたいことを察することのできない自分に、徐々に苛立ちを覚え始めていた。

「斉木。ちゃんと聞いてやるから、なにか言いたいことがあるならはっきり言え」

「じゃあ言いますけど」

 斉木が伏せていた瞳を上げた。酔いの下に表れた決意の色を見てとって、俺は何故か息を詰まらせる。これから重大な何かを聞かされるのだと、そのとき直感的に悟った。

「───俺、北村さんのことが好きなんです」

「んっ、なんだって?」

 しかし予想外の告白に、俺の思考は著しく鈍った。

「好きって……どっちの意味で」

「なんでこういうときだけ鈍いんですか。こんな状況で、上司として好きだとか言うわけないでしょ。察してくださいよ」

 どうやら俺は馬鹿なことを訊いてしまったらしい。落ち着いて考えてみれば、それは愚問というものだった。非常事態には慣れているというのに、今の俺は些か冷静さを欠いているようだ。部下から突然の告白を受けたのだから、それも仕方のないことだろう。言い訳がましく聞こえるかもしれないが、これくらいの動揺は許してほしい。

「……いつからだ」

「四年くらい、前から」

 驚いた。というより、強い衝撃を受けた。つまり、斉木が刑事課に配属されてから今までの四年余りも、俺に対する想いを募らせてきたというのか。明るく振る舞う表情の下に、そんな気持ちを隠していたなんて。

「俺、冗談で言ってませんよ。本気なんです。もう何年も前から、単なる上司じゃなくなってるんです。本気で、ずっと……」

 顔を歪め、消え入りそうな声で斉木が吐露する。素直な気持ちをぶつけられてもなお、情けないことにこの場にふさわしい言葉を俺は思いつくことができなかった。


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