短編

□帰る場所
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 間断なく降り注ぐ大粒の雨が、地面を叩きつけている。風を伴ったそれは不規則に横に流れ、俺の視界から一切の色彩を奪い去っていた。辺り一面は灰色で、眼前に建ち並ぶビルやマンションは、俺の目には無機質なブロックの塊に映る。
 足下には川が横たわっている。まるで墨汁を流し込んだようにどす黒い水面が、雨粒の弾を受けて激しい起伏を見せていた。目に見えて水位を増しているそれは、ここにいる俺をいずれは呑み込んでしまうだろうか。巨大なうねりとなって、その漆黒の闇の中に身を拐っていってはくれるだろうか。きっとあの黒い水は肌を切り裂くほど冷たいに違いない。酸素を吸い、二酸化炭素を吐く。そんな生物として当たり前の行為すら、与えてはくれないのだろう。だがそれでも、こちらにいるよりは幾分かは心地いいのかもしれない。陸に立って酸素を吸って、灰色の景色をただ漫然と眺めているよりは。

「綺麗だね」

 カメラのシャッターのような音に続いて、雨音の切れ間から届いた声に俺は肩を震わせた。左へゆっくりと顔を振り向けると、少し離れた先に一人の背の高い男が立っているのが見えた。
 黒い傘を肩と腕で器用に支えながら、空いた両手で一眼カメラを構えている。男はレンズをこちらに向けたまま、繰り返し言葉を重ねた。

「綺麗だ」

 俺は思いきり眉を寄せ、不審な男を睨んだ。大雨の中、傘もささずにずぶ濡れで佇む俺に向けて放った台詞なのだろうか。だとすれば、この男の頭の回線はどこかいかれている。
 俺は無視を決めこんで、再び足下に広がる川を見下ろした。しかし男は立ち去らなかった。カメラを構えた格好のまま、静かに近づいてくるのが視界の端に映る。

「一枚、撮ってもいいかな」

「いやさっき撮っただろ」

 俺は無視をすることも忘れて言い放っていた。口にした瞬間にしまったと後悔するが、しっかりと男と視線が重なってしまい、逃れるすべを失った。
 男は俺の指摘に驚いたように目を丸くし、そして「ああ」と自分の言動に気づいて声をもらした。

「そうか……そうだった」

 男は瞳を伏せ、カメラに視線を落とした。真っ直ぐな睫毛が均等に並び、目の下に淡い影を生む。整った鼻梁に、やや厚めの下唇。酷く綺麗な相貌をしたこの男に、俺はたった今綺麗だと評されたのだ。

「あんた大丈夫か?」

 身を案じる気持ちから派生した言葉ではない。雨に打たれながら川を眺めているような自分には言われたくないだろうが、この荒れた天候の中、高価そうなカメラを手に人気のない場所をうろついている男のほうが俺にはよっぽど不気味に思えた。加えて、初対面の男に向かって臆面もなく綺麗だなどと言いながら、勝手にシャッターを切るような相手を不審に思わない筈がない。
 しかし男は気を損ねた様子もなく、俺の濡れた顔の上にじっと目を据えた。

「この場合……心配されるのは君のほうじゃないかな」

 もっともらしい台詞に、気づけば声をあげて笑っていた。客観的に見比べてみれば、確かに俺のほうが怪しいだろう。もしかするとこの男は、俺が氾濫しそうな川に飛び込んで自殺を図ろうとしていると勘違いしたのかもしれない。
 俺は可笑しくなって笑いを止めることができなくなった。表情を変えずに見つめてくる男の前で手を振り、足止めさせてしまったことを詫びる。

「大丈夫、もう帰るから」

 踵を返して足を踏み出したが、それ以上前に進むことはできなかった。振り返ると、長い指が俺の手首を掴んでいた。傘からはみ出した男の肘から先を、あっという間に雨が濡らしていく。しかし男は気にする素振りも見せず、ただ真っ直ぐに俺の瞳を捉えていた。


+++


 初めて会ったばかりの相手の部屋にあがるのは、なにも今夜が初めてのことではない。日常的に他人の家を渡り歩く生活を送っている俺にとっては、特段に驚くような出来事でもなかった。繁華街のバーや路上で声をかけられれば、それが男だろうが女だろうがついていく。性別に拘りはない。俺は寝床さえ提供してもらえればそれで満足したし、相手も俺に金銭など求めてはいない。一夜の宿を与える対価は、身体で充分だった。
 男に案内された部屋は、極端に物が少ない殺風景な空間だった。まるであらかじめ家具だけを誂えたモデルルームのようで、生活感はないが小綺麗にしており、居心地は悪くなかった。ただ一つ異質だったのは、リビングの隅に備えた小さな木製のデスクセットだ。カメラのレンズなどが収まったアクリルケースや古いフィルム、アルバムらしきものが無造作に置かれ、その一角だけ雑然とした雰囲気を醸している。
 俺はそこに視線を一瞬投じただけで、タオルで頭を拭くことに専念した。他人の私物にも嗜好にも一切興味はなかった。

「風呂沸いたから、入っておいで」

 リビングに現れた男がそう言って俺に微笑みかけた。まるで親しい友人に向けるような表情に、些か面食らってしまう。礼を言って脱衣所へ行くと、棚の上にタオルと新品の下着、それと着替えが綺麗に畳まれて置いてあった。
 水を吸って重くなった服を脱ぐのには苦労したが、熱めの湯船に肩まで浸かると、さっきまでの寒さが嘘のように消えていくのを感じる。俺はしばらく目を閉じて、熱い湯の中に四肢を投げ出していた。
 風呂を出てリビングに向かうと、キッチンでコーヒーメーカーをセットしていた男が物音に気づいて振り向いた。その端整な顔には先程の穏やかな笑みが広がっている。

「温まった?」

「お陰様で。……なあ、ついでに今夜泊めてくれると助かるんだけど」

 断られるだろうと思ったが、男は二つ返事で頷いていた。それが快諾に近い返答だったので、俺は自分から願い出たことを隅に追いやり、男の顔を訝しげに見上げた。

「本当にいいのかよ。そんな軽々しく他人を泊めちゃって」

「盗まれるような物はなにもないよ」

「はあ?すげえ高価そうなもん置いてますけど」

 俺は親指を立てて、後ろのデスクセットを示して言った。望遠レンズのついたカメラの他に、外で男が首から提げていたカメラもそこに無造作に置かれている。
 男は指の先を追ってデスクを一瞥すると、「ああ」と消え入るような声を微かにもらし、小さく微笑んだ。

「君は興味ないだろう?カメラなんて」

「いや、興味があるないの問題じゃないだろ。売れば結構な金額になるようなもんを、他人の前であんな無造作に放置しておいて大丈夫なのかって意味だよ」

「ああ、それは大丈夫」

 何故か断定的な口調で、男は言いきった。

「君はそういうことはしないと思うから」

 何を根拠に、という言葉が喉まで出かかったが、口にするのも面倒になって呑み込んだ。あえて迂遠な物言いをすることで釘を刺しているのかもしれないが、男の呑気な横顔を見ていると、そんな考えも消え失せてしまう。

「……あっそ」

 疲れを滲ませてため息を吐く俺の前に、男は無言でカップを差し出した。湯気に乗って香ばしい匂いが鼻腔を掠める。男が俺に訊いた。

「砂糖は?」

「いらない。座っても?」

「どうぞ」

 コーヒーを一口啜り、側にある革張りのソファに腰をおろした。背凭れに身を預けながら、ふと周りに視線を巡らしてみる。本当に無駄な物が何一つ置いていない。生活の匂いが絶たれた部屋は、まるでこの場所をいつでも離れられるように整えているような、そんな気配すらした。

「なんで俺に声をかけたんだ?」

 向かい合う形で床に座った男に、俺はそう切り出した。興味本位というよりは、この静まり返った空間に気詰まりを覚えたからだ。この男は知らない人間と顔を突き合わせていて、気まずくはないのだろうか。せめてテレビくらいはつけてほしい。そう思っていると、男が自分の前のカップを引き寄せながら、口を開いた。

「綺麗だと思ったから、かな」

「へえ、ふうん。あんたさ、ゲイ?」

「違うけど……どうしてそう思う?」

 反問されて、俺は目をしばたたいた。まさかそんな返事がくるとは思いもしなかった。

「え、それ天然?わざと?どうしてってそりゃあ、綺麗とか言われて勝手に写真撮られたら、誰だってそう思うんじゃないの。俺はまたやばい奴に声かけられたと思って、ちょっとビビったけど」

「ああ、あれはごめん。許可なく撮って悪かった。気がついたらシャッターを切ってて───嫌だったら、あとでちゃんと消しておくよ」

「別に、消さなくてもいい。写真なんて撮りたきゃいくらでも撮らしてやるよ。俺なんかが被写体でいいんならな」

 男は何も言わなかった。相変わらず読めない目で俺をじっと見つめ、それからコーヒーを静かに飲む。よくわからない男だと内心で思いながら、俺もカップを傾けた。


***

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