長編


□第三章
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 青紫色の花弁を満開に咲かせた紫陽花を前に、紫乃は折っていた腰をゆっくりと伸ばした。
 首を曲げ、視線を空に移す。灰色の雲に覆われた空は絵に描いたような曇天で、今にも雨が降りだしそうだ。首を倒したまま深く息を吸い込むと、湿った土の匂いが鼻腔を満たした。その匂いに不快感はなく、むしろ懐旧の情を紫乃に与えた。

「お疲れさまです」

 声がしたほうへ顔を振り向けると、首にタオルを巻いた晃一が、サンダルを引っ掛けてこちらに歩いてくるのが見えた。

「向こうで休憩しましょう」

 晃一は紫乃の側までやってくると、立てた親指で自分の背後を示した。いつの間にか現れていた晃一の母親が、盆を持って縁側に立っていた。
 綺麗な紫陽花の咲いた庭があるここは、晃一の実家である。今日は家の掃除を手伝いにやってきたのだった。
 掃除といっても、床を掃いたり家具を拭いたりするものではなく、物置や二階の使っていない部屋の不用品を片づけるといったものだ。中には重量のある物もあり、それを六十を越えた小柄な女性一人で階段を往復するのは目に見えて困難である。
 晃一が手伝いに行くという話を聞いて、それならば自分を使えと申し出た。実家の掃除なんかでわざわざ手を借りることに晃一は恐縮したが、こういう仕事を本業としている紫乃にとっては、どうということのない作業だ。
 実際、処分する物の殆どは細々としたものばかりで、二階から運び出す作業としては楽な力仕事だった。それでも晃一の母はいたく感謝をしてくれたので、彼女の笑顔と礼だけで来た甲斐があったと紫乃は満足した。

「さあ、座って。疲れたでしょう」

 紫乃に労いの言葉をかけながら、晃一の母は氷の入った麦茶を差し出した。たいして疲れてはいないが、彼女にとっては重労働に等しい作業なのだろう。
 紫乃は礼を言ってグラスを受け取ると、縁側にゆっくりと腰を下ろした。

「紫乃さんに手伝いに来てもらってよかったね。さすが本職だけあって作業が早いし」

「ほんとにそうよね。頼もしいわあ。普段からこういう力仕事してるから、腕もこんなに逞しくなるのかしら」

 そう言って、晃一の母は掌で紫乃の二の腕を叩くように撫でた。筋肉が凄いなどと感想を述べながら触り続ける母親に、晃一は「ちょっと、触りすぎ」と窘めるように言った。

「母さん、紫乃さんがかっこいいからテンション上がってるんだろ。ほんとに面食いなんだから」

「年取るとみんなそういうふうになるのよ」

 目尻に細かい皺をいくつも作って、晃一の母はころころと笑った。小柄だが溌剌とした雰囲気を発している彼女は、年齢よりも随分と若く見えた。

「あんたの友達はいい男ばっかりね。彰吾君も凄く男前だけど、紫乃さんもなかなか負けてないわよ」

 冗談めかして笑う彼女の横顔を、紫乃はまじまじと見つめる。

「そうか、晃一君のお母さんは、御崎さんのこと知ってるんですよね」

「高校生の頃からね。よくうちにも遊びに来てたし。そういえばさっき二階から出してきたアルバムの中に、昔の写真があったかもしれないわね」

「えっ、写真?見たい、見たいです」

「いいわよ」

 紫乃にお願いをされたのが嬉しいのか、晃一の母は満面の笑みで頷くと、立ち上がって部屋の奥へと消えた。

「写真見たこと知ったら、御崎先輩怒りませんかね?」

「黙っといたらバレへんやろ?」

 紫乃が人差し指を唇の前で立てると、晃一は眉を下げて苦笑した。
 ぱたぱたと足音をたてながら、晃一の母が戻ってくる。再び縁側に座りこみ、一冊の古びたアルバムを紫乃に開いて差し出した。

「ほら、ここ。右が晃一で、その隣にいるのが彰吾君」

 指で示す先に、紫乃は視線をやった。ブレザー姿の少年が二人、並んでカメラの前に立っている。晃一は腕に茶色い子犬を抱えて、顔中を綻ばせて笑っていた。この当時から丸顔は変わっていないようだ。
 対する御崎は片手をポケットに突っ込んでいるだけで、手には何も持っていなかった。
 癖のない黒髪は今より少し短い。優しげな微笑を浮かべてこちらを見つめるその顔は、今と変わらず端整で美しかった。
 晃一とは二歳離れていると聞いているから、恐らく御崎が高校三年で、晃一が一年の頃の写真だろう。二年の差があるとはいえ、御崎は随分と大人びて見えた。隣の晃一が童顔だから、尚更そう感じるのかもしれない。
 これは相当にもてただろうと、写真からでも容易に想像がついた。

「かっ、かわいい」

「そうでしょう?この頃から彰吾君は他の子より目立ってたから。それにしても綺麗に撮れてるわね、その写真。よかったら彰吾君に渡してあげてくれる?」

「はい、もうしっかり渡しておきます」

 引き抜いた写真を懐にしまいながら、紫乃は何度も頷いて快諾した。晃一の母も嬉しそうに瞳を細め、「ありがとうね」と手を叩いて些か大袈裟に礼を口にする。
 三人はしばらく縁側に並んでアルバムを眺めていたが、途中で電話がかかってきたのを機に晃一の母がその場を離れると、左隣から笑いの含んだ声が耳に届いた。

「その写真、どうするんですか?」

 悪戯っぽい笑みを口角に滲ませ、晃一はそんな質問を投げかけた。疑問符をつけてはいるが、写真が御崎の手に渡ることがないのを見透かしているのは明らかだった。
 だから紫乃も、唇の端をちらりと上げてみせる。

「事務所の机に飾っとく」

「ああ、やっぱり」

 晃一は声をもらして笑った。しかしすぐに笑みを引っ込めると、神妙な面持ちを作って問いかけてきた。

「その後、先輩とはどうなんですか」

 心配そうな顔をした晃一に呼び止められたのは、先月の始めのことだった。
 その日も『くれは』で夕食を摂っていたのだが、トイレに立ったときに晃一がその後を追いかけてきたのだ。

「あの、紫乃さんにちょっと聞きたいことがあるんですけど」

 そう言った表情が妙に真剣だったので、紫乃は足を止めて晃一に向き直った。なにか相談事でもあるのだろうか。

「なに、どうしたん?」

「御崎先輩のことなんですけどね。先月の誕生日会のあとから、なんか様子が変なんですよ」

 十和子から聞いた台詞と同じだった。
 紫乃はすぐさま得心したが、口を挟まずに耳を傾ける。続く言葉も似たようなものだろうという予想は、まさに当たっていた。

「ぼうっとしたり、上の空だったり、物を落としたり……とにかくいつもの先輩じゃないっていうか、変なんです。こんなこと今まで一度もなかったんで、心配なんですよね。紫乃さんだったら、なにか知ってるんじゃないかって」

 紫乃は説明を渋ったが、その僅かな逡巡を、ああなってしまった原因が紫乃にあると捉えた晃一は、心配そうな顔をますます不安に曇らせて、紫乃ににじり寄った。
 理由がわからないことには気になって仕事に身が入らないとまで言われては、さすがに紫乃も逃げることはできなかった。このまま晃一に心配をかけさせ続けるわけにもいかない。

「いや、実はな……」

 紫乃は仕方なく、先日の話を小声で話し始めた。店の奥での立ち話なので、説明は簡潔に努める。
 話を聞き終えた晃一は、最初は内容を飲み込めないかのような表情でまばたきを繰り返していたが、時間が経つにつれ、その丸い頬にじわじわと赤みが差していった。

「え?……キスしたって……ええっ?」

 つい張り上げてしまう声を抑えるように、晃一は慌てて口を片手で塞いだ。それから後ろを振り返って人がいないことを確認すると、紫乃のほうへ顔を寄せた。

「それ、本当ですか?」

 紫乃が認めると、晃一はまた「えーっ」と驚きの声をあげたのだった。あのときの晃一の顔は、今思い出しても可笑しくてならない。
 紫乃は口元に笑みを刻みながら、庭の紫陽花に視線を転じ、ぼんやりと眺めた。

「特に進展はないかなあ。会えばキスはしてるけど」

「えっ、ま、毎回?それは……充分に進展と言えるのでは……」

「うーん、どうなんかな。俺から強引にやってるだけやし、まだなんともなあ」

 紫乃は曖昧に言葉を濁し、グラスの中身を呷った。晃一は軽く頷いただけで、それきり追及はしてこなかった。それで納得したわけではないだろうが、今は晃一の気遣いがありがたかった。
 早くいい報告ができればいいのだがと、靴の先で濡れた地面を無意味になぞりながらそんなことを考えていた。


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