長編
□第二章
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紫乃が熱を出して寝込んでいると聞かされたのは、年が明けた朝のことだった。
自宅で遅めの朝食を摂っていると、晃一から電話がかかってきた。新年の挨拶を交わし、四日からの仕込みの内容を確認しつつ、他愛のない話を終えたあとに、晃一が最後に言い添えたのだった。
「紫乃さん、熱があって寝てるらしいですよ」
新年の挨拶をしようと、晃一は紫乃に連絡をとったらしい。すると相手は大晦日から体調を崩しており、今も布団の中で寝込んでいるという。
「風邪を移すと困るから、先輩には黙ってろって言われたんですけど、一応知らせておこうと思って」
通話を切ったあと、御崎はそのままボタンを手繰って紫乃の電話番号を開いた。受話口を耳に押し当てるが、聞こえてくるのは無機質な呼び出し音だけだった。携帯を閉じ、キッチンのカウンターにそれを置くと、御崎はしばし思案に耽る。
寝ているのだろうか。それとも、布団の中で倒れているのだとしたら。可能性として有り得るのは前者だが、倒れていないとは言いきれない。寝込むほどの熱なら、病院に行ってるかどうかも怪しい。
時計に目をやった。これから買い物へ行って支度をすれば、昼過ぎには事務所に着くだろう。必要なリストを頭の中で並べると、御崎は財布を取りに寝室へ向かった。
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薄く開いたドアの隙間から、紫乃の茶色い頭が覗く。
伸びた髪は所々寝癖で跳ね、口元には無精髭が散っていた。頬が赤くなっているのを見て、確かに熱があるのだろうと一目で察する。
「なんで……」
思いがけない来客に、紫乃の赤い顔に狼狽の色が浮かんだ。
まさか事務所にやって来るとは思ってもいなかったのだろう。
「熱出して寝込んでるって聞いて」
「移したらあかんから、言わんでいいって言うたのに」
ボサボサの頭に指を突っ込んでかき回すと、紫乃は眉を八の字に下げ、困惑したような表情を作った。
とはいえ、わざわざ様子を見にやって来た意中の相手を追い返せる筈もなく、紫乃はドアを開いて御崎を中に招じ入れた。
「まだ何も食ってないよな?」
室内に入りながら、御崎は持参した紙袋を突き出した。紫乃は不思議そうな顔でそれを受け取り、中身を取り出してテーブルの上に置く。
透明の容器が二つ。蓋を開けて中を覗き見ると、煮物が綺麗に詰められていた。
栗きんとんに田作り、ふっくらと炊かれた黒豆と、艶やかな昆布巻き。頭付きの海老まで入っている。
「うわ、おせちや」
「一つぐらい正月らしいものがないとな。まあ、殆ど大晦日に出した店の余りだけど。冷蔵庫に入れておいて、体調戻ったら食えよ。固形物はまだしんどいだろ」
「いやいや、今食べるよ」
当然だといった顔で頭を振ると、紫乃は煮物を一つ指で摘まみ、口の中に放りこんだ。
薄味だが、しっかりと効いた出汁が染みている。
紫乃は小さな感動と共に容器の中身を見つめた。こんなに美味いおせちは今までに食べたことがない。
「食欲はあるんだな」
キッチンの棚から取り出した小皿と箸を、紫乃の前に置きながら御崎は言った。
「なにこれ、めっちゃ美味いな。御崎さんの店では、大晦日におせちが食えんの?贅沢やなあ」
小皿に煮物や海老をよそいつつ、紫乃が訊ねる。
「常連さんからの希望でな。うちは三が日は店閉めてるし。予約があれば箱に詰めて販売もしてるから、毎年多めに作ってるんだ。なあ、キッチン借りるぞ」
「えっ?うん、それは全然いいけど……なんで?」
スーパーの袋から野菜を取り出している御崎を見て、紫乃は首を傾げた。
「消化にいいもの作ってやるから、向こうで寝てろよ」
「えっ」
紫乃は驚嘆の声をあげて、目をしばたたいた。
見舞いに来てくれただけでも跳び上がるほど嬉しいというのに、そのうえ食事の用意までしてくれるのか。
「ほんまに?」
「ほら、また倒れるぞ。早く寝てろって」
激しく咳き込む紫乃を、御崎は部屋の奥へと追いたてた。
鼻先で閉められた扉の前で紫乃はしばらく呆然と佇んでいたが、身体の怠さも相俟って、素直にベッドに身を投げた。すぐに眠気に襲われるかと思ったが、意外とそうでもなかった。
しっかりと布団にくるまり、寝返りをうつ。ドアの向こうから聞こえてくる包丁の音が耳に心地良い。
こうした生活音を聞きながら眠るのは、何年ぶりだろうか。瞼を閉じてその音に耳をすませていたが、ドアの隙間から漏れてくる香ばしい匂いに、紫乃の腹が苦しそうに鳴いた。熱があっても、食欲が減退していないことが唯一の救いだった。
食べ物を摂ることができなければ、栄養が得られない。即ち風邪もいつまで経っても完治しない。
紫乃はベッドから下り、ドアをそっと開けた。キッチンに立つ御崎の後ろ姿が、ぼんやりとした視界に飛び込んでくる。
寝室を静かに抜けると、紫乃は御崎の背後にぴたりと立った。
「寝てろって言っただろ」
手を動かしながら、御崎が言う。
「うん……めっちゃいい匂いする」
「生姜じゃないか」
「ああ、うん、それもやねんけど」
背後からするりと両腕を回す。御崎の身体が一瞬、腕の中でびくりと強張ったように感じられた。
「こっち……御崎さんからもいい匂いしてる」
紫乃は耳元に唇を寄せて囁き、鼻先を御崎の首筋に近付けた。
今度ははっきりと、御崎の身体が小さく跳ねるように震えたのがわかった。
「おい……やめろ」
「なあ御崎さん。今日、なんで来てくれたん?」
固まったままの御崎の耳朶に、紫乃は殆ど唇を押しつけんばかりに囁き続ける。
「こんなことされたら俺、ちょっと勘違いしそうになるんやけど」
沈黙が二人の周りを支配した。しかしそれは明らかに、御崎から放たれているものだった。
「うるさい。近いんだよ、馬鹿」
鳩尾に肘が食い込み、紫乃は呻き声を漏らして後退った。
「うっ……御崎さん、俺一応病人」
「だから寝てろって言ってんだろうが。さっさと行け」
「わ、わかりました」
背中越しに尖った言葉を投げられてしまい、紫乃は素直に身を引いた。しかし寝室には戻らず、革張りのソファに腰を沈めた。
御崎はこちらを振り向きもせず、手元の作業に集中している。その表情は窺い知れなかったが、紫乃は一匙の違和感を胸に、己の両手をじっと見つめた。
御崎から微かに伝わってきたあの震えは、動揺なのだろうか。これまで紫乃の接触には眉一つ動かさなかった男が、初めて示した反応ではないのか。
「ったく、皿ぐらい置いとけよな」
ため息と共に、目の前に雑炊の入った小鍋が置かれた。
立ち上る湯気に混ざった出汁の香りが鼻腔をくすぐり、紫乃は急激な空腹を覚える。
「まあ、予想はしてたけどさ……包丁も刃元が少し錆びてたぞ。何年使ってないんだよ、あれ」
紫乃は両手を合わせると、スプーンを手に取り、御崎を見上げた。
腰に手をあてて呆れたように話すその表情は、いつもの彼と寸分も変わらないように見える。
「全然、覚えてへんな。俺料理できへんし」
この鍋も、煮物をよそった小皿も全て、昔付き合っていた相手が置いていったものだと知ったら、御崎はどんな顔をするだろうか。
「新しいの買えよな」
「御崎さんがまた手料理作りに来てくれるんやったら、買い揃えてもいいけど」
紫乃が試すように上目遣いを寄越すが、御崎は彼の意図に気付いているのかいないのか、腰にあてた手を胸の前で組ませて短く息を吐いた。
「俺が来なくても買い揃えておけ」
「そこは嘘でも来るって言うてよ」
スプーンで雑炊を掬い、口に運ぶ。
細かく刻んだ野菜と米に絡んだ卵が絶妙だった。更に生姜の香りが食欲を促進し、紫乃はあっという間に鍋の中身を空にした。
料理人が作る雑炊は、こんなにも美味いのか。
「大人しく寝てろよ。俺はもう帰るから」
薬を飲み終えるのを確認すると、御崎は再び紫乃を寝室まで誘導した。ベッドの側に立ち、布団に潜り込む紫乃を見下ろす。
「もう帰んの?」
「最初からそのつもりだったし。じゃあ、お大事に」
熱を帯びた掌で、御崎の手首を掴んで引き止めた。
「待って、もう少しおってや」
「でも、俺にできることはもうないぞ」
「ここにいてくれるだけでいいから。なあ、お願い」
御崎は迷っているようだった。
微かに瞳を揺らし、紫乃の赤くなった顔に視線を落とす。額に玉のような汗が浮かんでいるのを見て、御崎は短くため息を吐き、黙って寝室を出て行った。
帰ってしまったのだろうかと思っていると、彼はすぐにドアを開けて戻ってきた。そして、水で濡らしたタオルを紫乃の額にそっと乗せ、優しく言い置いた。
「向こうにいるから、何かあったら声かけろよ」
「……ありがとう」
御崎は小さく微笑むと、ドアの向こうへと姿を消した。
紫乃はしばらくの間、寝室の薄いドアに目を向けていた。それから手を伸ばし、額のタオルに掌を重ね置く。御崎の優しさが、肌を通じて全身に染み渡るようだった。
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