長編


□第一章
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 都内某所。
 どこにでもある古ぼけたコンクリートビルの二階に、『Jack』という名の個人事務所がある。事業内容は、俗に言う便利屋だ。
 そもそも便利屋とは、様々な雑事の代行サービスを行う業者のことを指す。
 犬の散歩、部屋の整理、家具の移動や不用品回収等その内容は多岐にわたるが、果たしてここが便利屋として機能しているかどうかは疑わしかった。
 紫乃巽は、ここの経営者でたった一人の従業員である。自分以外の人材を雇わないのは、彼が依頼内容を選り好みし、一人で実行可能なものだけを受けているからだ。
 それで経営が成り立つのかと真っ先に疑問符が浮かぶが、紫乃の本業は『情報屋』であり、殆どの収入源は様々な情報を提供することで得るものばかりだった。実際、それで生計をたてているのだ。
 事務所を借りたのは数年前、自宅からそう遠くない場所にたまたま空いていた部屋があったのと、家賃がこの辺りの相場と比較して破格に安かったのが理由だった。
 部屋の中央には、来客を迎えるためのテーブルと革張りのソファが二脚。そして窓を背にして小さなデスクが置いてある。もちろんそこは事務作業を行う場所であり、本来ならば整頓されて然るべきなのだが、デスクの上は仕事で使う資料がうずたかく積み上げられ、まるで物置のような様を呈している。
 壁には木製の本棚が並んでいるが、そこに詰め込まれているのはおよそ業務とは関係の無い週刊誌や旅行雑誌、漫画といったものばかりだった。
 柱に掛けたステンレス製のアナログ時計は、電池が切れたままで放置しているのか、秒針が『5』の上で動きを止めている。
 どこかでアラームが鳴り響く。
 ソファの上に山を作っていた灰色の毛布が、もぞもぞと衣擦れの音をたてながら蠢いた。毛布の裾から腕が伸び出し、テーブルに置いたスマートフォンを掴むと、騒がしく鳴り続けるアラームを止める。
 緩慢な動作で起き上がった紫乃は、気怠げに首をぐるりと回してから、寝癖のついた茶色い頭をがりがりと掻いた。そして大きく欠伸を一つすると、億劫そうにソファから立ち上がり、窓を覆っていたブラインドをゆっくりと上げた。
 傾き始めた西日が、雑然とした部屋の中を照らし出す。仕事の予定が無い日は、こうして日が傾くまで寝ていることが殆どだった。

「なんだその寝癖」

 ノックもなしに開いたドアから、髪を短く刈り込んだ男が顔を覗かせた。
 黒縁の眼鏡のレンズが、西日の光りを受けてオレンジ色に反射している。

「なんや、コマか」

 事務所の主から『コマ』と愛称で呼ばれた男は、本名を駒野隆雄といい、紫乃とはもう十数年の付き合いになる。
 駒野はここから十分ほど歩いた場所にある商店街の一角で、小さなたこ焼き屋を営んでいた。その自家製のたこ焼きを手土産に、彼はこうして時々意味もなく訪ねて来るのだ。

「また?飽きたからいらんって言うてるやん」

 駒野が右手に提げた白いビニール袋を見て、紫乃はややうんざりとした口調でもらした。
 
「大阪の人間は毎日たこ焼き食うんだろ?」

「いや、どんな偏見?言うとくけど、大阪人はたこ焼きの消費にそこまで貢献してへんぞ」

「そうなのか?一家に一台は必ずたこ焼き機が置いてあるって訊いたけどな」

「はい、出た。お決まりの都市伝説」

 ため息をつくと、紫乃は指先で長く伸びた前髪を掻き上げた。
 彫りの深い精悍な顔立ちが露になる。 

「まあ、とにかく食えよ。どうせさっきまで寝てたんだろ。何か腹に入れとけ」

「お前ほんまにおかんみたいやな」

 誰がだよ、と駒野は肩を竦めると、テーブルに袋を置いてさっさと事務所を出て行った。彼が長居することは滅多にない。
 駒野が帰ったあと、紫乃は腕を伸ばして軽くストレッチを行った。長時間硬いソファの上で寝ていると、身体が軋むように痛くなるのだ。
 ストレッチが済むと、デスクの一段目の引き出しから鍵を取り出す。そして磨りガラスの小窓のついたドアを開けて、小気味よく階段を下りていく。
 外へ出て、ビルの脇にある駐車スペースに停めた愛車のバイクに鍵を差し込み、ヘルメットを被ってシートへ跨がった。


+++


 国道を走らせて十五分。紫乃は通い慣れた河川敷の側でバイクを停めた。陽を受けて鈍く光る川の上には、白い鉄橋が掛かっている。
 まだ十月の下旬だが、今日は少し肌寒い。何か羽織ってくればよかったかと後悔しながら、紫乃は短い石段を中程まで下りると、そこへ腰を下ろした。
 懐から煙草を取り出し、ライターで火をつける。ゆるりと煙を吐き出しながら、川の水面に視線を投げた。小さな魚の影が見えるが、この川に一体何の魚が棲みついているのかは知らない。

「───火、ありますか」

 後ろから突然声をかけられて、紫乃は首を捻って振り返った。
 背後の石段を、黒いコートを来た一人の男がゆっくりとこちらに向かって下りてくる。
 
「ああ、すみません」

 突然声をかけたことに申し訳なく思ったのだろう。男は小さく会釈を寄越すと、紫乃の斜め後ろで足を止めた。
 細身で背が高く、肌の白い男だった。マスクを着けているせいで顔の半分は隠れて見えなかったが、くっきりとした二重で切れ長の目元だけは、紫乃の位置からでも確認することができた。

「ライター、忘れてしまったみたいで」

 マスクでくぐもってはいたが、艶のある凛とした声だった。
 胸の奥から好奇心が沸き上がってくるのを感じる。紫乃は男の素顔に強く興味を惹かれた。

「ああ、ライターね」

 紫乃は視線を落とした。男の右手の指の間に、真新しい煙草が一本挟まれているのを確認する。

「それが、ちょうどガス欠したところで。よかったらここからもらいます?」
 
 そう言って、紫乃は自分の煙草の先を指で示した。
 ライターのガスが切れたというのは嘘だった。一昨日買ったばかりで、当然まだ充分に火力はある。気になった相手に使う、紫乃の常套手段だ。
 彼は男の反応を窺った。初対面の人間に煙草の火を直接貰うことに、戸惑いが生じないとは思えなかった。
 それに今の紫乃は、服装も普段着のような格好で、彫りの深い自慢の顔も、無精髭と寝癖だらけの長い髪に覆われていて殆ど見えないのだ。
 けれど、紫乃は口元に笑みを湛えて静かに待った。
 マスクで表情は殆ど読めないが、男は逡巡するように数秒の間黙りこむと、おもむろに腰を落とし、マスクに手をかけた。

「それじゃあ、失礼します」

 現れた男の顔に、紫乃は短く息を呑んだ。
 通った鼻筋に、女のように滑らかな肌。血色のいい唇はやや薄く、その左下にはほくろがある。伏し目がちになると、長い睫毛が黒い瞳を覆い隠した。
 紫乃はただ呆然と、目の前の男が細い指で煙草を口にくわえる仕草を見つめていた。
 顔の距離が縮まる。男の身体から、ふわりとオリスの香りがした。
 男が顔を小さく右に傾けながら、紫乃の煙草の先に自分の煙草を密着させると、ちりちりと赤い火が燃え移っていった。

「どうもありがとう。助かりました」

 男が口角を優雅に上げて、にこりと笑う。とても綺麗な笑みだった。
 紫乃がその笑顔に見惚れていると、男がコートの内ポケットから一枚の名刺を取り出し、静かに差し出した。

「この川を渡った場所で店をやってるんです。狭苦しい所ですけど、よかったらいらしてください」

 男は腰を上げると、コートの裾を翻して河川敷を立ち去った。瞳と同じ漆黒の髪が風でさらりと靡く様子を、紫乃は呆けたように口を開けたまま見送った。
 やがて男の後ろ姿が見えなくなると、受け取った名刺にようやく目を落とした。
『小料理屋くれは』という店名の下に、『店主 御崎彰吾』と名前が連なっている。
 
「……御崎、彰吾」

 紫乃は口の中で名前を呟くと、再び顔を上げた。
 御崎が歩き去った砂利道を遠い目で見つめながら、彼にもう一度会うためなら煙草の火などいくらでもくれてやると思った。


***
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