short story
□やっぱり彼には勝てないのだ(カルム)
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どうしよう。緊張と困惑にクラクラと眩暈がしてきそうだった。無い知恵を総動員して、なにが適切かを一つ一つ整理しようと深呼吸をする。
「ナマエ?」
ああ、出来れば話しかけないでほしかった。ようやく落ち着いて来たのにまたぶり返しそうで、でもそんなことを彼に知られたくなくて努めて平静を装って返す。
「なに?」
「そんなに緊張しなくてももっと気軽にしてればいいんだよ。ほら、あそこの家族みたいに」
振り向いてみれば、細く白い指が指し示す方向、テーブルを囲む子供連れの家族は時々談笑を挟みながら楽しく食事をしていた。
けれどわたしが注目してしまうのはその手元だ。ナイフとフォークがとても美しい所作によって使われ、お皿の上の料理を切っている。
単刀直入に言えばわたしはナイフとフォークを使っての食事が苦手だ。引っ越してきた前はジョウト地方に住んでおり、そこでは和食がほとんどだった。お箸の持ち方から、食べ物の切り方、解し方は祖母から教えてもらっていたため問題なく使える筈なのだが…。
カロスに引っ越してきてからというものこうやってそんなに触れたことがないこれの使い方に悪戦苦闘してしまう。
ナイフというものは力を入れすぎればお皿と擦れ合い嫌な音が出てしまう。力加減や入れ方で簡単に切れるらしいのだがどうしてもうまくいかない。
カチャカチャと微かにこの場の空気に混じる音はどれも儚く綺麗な音で、バックミュージックのようにも思えてしまう。
わたしがたてる音がこの調和を崩す一因になってしまいそうで、とても怖い。
本格的なフレンチになれば複数のナイフとフォークを使わなければいけないのも、戸惑いを覚えた。
どうしてこんなにも複雑なのかと。一種類ずつでもいいのではないかと、そう思うのはきっとよそ者だからだろう。これらを難なく操る人達が普通なんだ。
そんな風にどうにもならない現実から逃避することもできず、料理が運ばれてきた。
彼が動くまで待っているのは、真似をすればいいんだという思いは自分で自分を蔑んでいるように思えどうしてもできなかった。
わたしは意を決していくつも並ぶ、苦手とするそれらの中から一つづつ手に取り、持ち方に気を付け、切り方に注意をしてそうしてたった一口運んだだけなのに全神経を集中させ、咀嚼して喉を滑る頃には既に疲れ切っていた。
勿論味なんてものは二の次でいかに普通に振る舞えるかばかりに気を取られていた。これから出てくるメニューの数々にわたしは立ち向かわなければならない。
ここはわたしにとってバトルをするよりも神経を削る戦場と化していた。
▼
なんとか最後のデザートまで行きつき、食べ終えることが出来た。
お会計はカルムくんがしてくれ、レストランを後にする。
もう彼に「おすすめのとびきり美味しいお店に連れて行ってほしい」と言うのだけは止めようと一人誓った。
バトルで勝った方が相手のお願いをなんでも一つ聞く、と言う形で始まったバトルであった。
そんなどちらかが勝った以上にご褒美まで手に入るなんて不純な動機から始まったからだろうか、それを提案したのがわたしで、きっと天罰が下ったのだろう。
だからバトルに勝ってご褒美を手に入れた結果、ああなったのだ。
慣れないヒールも、普段は好んではかないスカートも、ご褒美を手に入れるための代償はとても大きく、けれどわたしを幸せにはしてくれなかった。
「ナマエ、もう一つ行きたいことがあるんだけどいいかな?」
「まだ…あるの」
申し訳ないが今すぐにでも家に帰りたいと思っていた矢先の提案に、頬が引きつった。強張った表情になっていないことを願いつつそんなわたしをカルムくんは何だか得意げな笑みを浮かべて手を引いた。
「これから行くところが本命。きっとナマエは気に入るよ」
街頭に照らし出された顔は冷たい空気に透けるように透明で、思わず息を呑んでしまうほど美しかった。
連れてこられたのは小さなお店だった。壁に蔓のように伸びる植物の葉はハートの形をしていて可愛らしい。実際中に入ればその可愛さは内装にも反映されていた。
木張の壁は胡桃色で、そこにかけられた額縁の中に入っている花の絵がどれも淡いタッチで描かれている。その一つにこぼれそうになった歓喜の声を手で押し込めた。
紫陽花だ。雨の滴を花びらに溜めこんで今にも滑り落ちそうな瞬間を切り取って飾られた絵に懐かしさが込み上げてくる。
カロスにはたくさんの花が植えられて見事な調和の元、鮮やかに咲き誇っていた。
どれも太陽の眩しい光を浴びてその存在を一層景色の中に色濃くしているのだが紫陽花ほど雨に似合う花は探してみても見つからなかった。
絵だけで郷愁に浸ることが出来た。
「気に入った?」
並び立ったカルムくんはわたしが感じている感動を壊さないようにそっと囁くように聞いてくる。
「うん、とっても素敵」
「良かった。でもまだだよ。ナマエに見せたかったのはこっち」
また、手を取られ引かれる。ショーケースの中に並べられているのは大好きなシュークリームだった。
かぼちゃのクリーム、チョコクリーム、カスタードクリーム、実に様々で宝石のように美しい色合いのシュークリームに自然と頬が緩んでいく。
「なんでも選んでいいよ、オレの奢りだから」
「え、でも…」
さっき食べた料理の代金はどうなるんだろう。あれほどのものが決してお手軽な値段の訳がない。きっとこのシュークリーム一つとレストランで出た一皿と比べてもその落差は凄まじいはずだ。
「ああ、あれはただオレが楽しみたかっただけ。ほら、いらないならオレだけ注文するけど?」
「ま、待って」
せっかくの至福が没収されるのを黙って見ているなんて無理な話だ。
うやむやなまま話を切り上げられ、わたしはシュークリームを選ぶためにショーケースに視線を戻した。
時間をかけて選んだ結果、わたしは季節限定のかぼちゃのクリームと粉砂糖がふわりとかけられたカスタードクリームの二つのシュークリームを選び、カルムくんも一つ頼んだ。紅茶と共にイートインスペースに移動した。
寒かった外とは違い温かな室内の温度にほっと自然と安堵の溜息を吐く。ここでは何も怖くなかった。だってナイフとフォークがなかったから。手拭きのタオルだけが置かれ、それはつまり手掴みで食べていいということだ。
「いただきます」
誰の目も気にせず手にとって食べることが当たり前の店ではわたしは普通でいられた。
ぱくりと頬張った一口はふわふわで、ひんやりと冷たく滑らかな口当たりのクリームがとても美味しい。
こんな事を言うのは不誠実かもしれないがあのレストランの食事よりもこのシュークリームの一口の方がずっと魅力的だったから。
心から「美味しい」と言えた。食べ物に感謝する挨拶に意味を見いだせた。命を頂いたことに感謝する言葉をすんなりと紡げた。
「ありがとう。カルムくんはとっても素敵なお店を知ってるんだね」
「気に入ってもらえたなら良かったよ。漸く食べた気になれた?」
「う、うん」
こくりと首を傾げ、彼に怪訝な眼差しを向ける。あのレストランでわたしが食事を楽しめなかったことを確信しているようにみえ、その見解は次の言葉で確信へと変わった。
「ナマエはナイフとフォークを使った食事は苦手だろ。だから、あれはわざとそうしたの」
全てを理解するまでに時間を要した。理解した瞬間、わたしは彼に憤慨した。
「酷い…最低だよっ」
軽蔑を込めて見つめるが彼は何てことないようだった。投げた言葉に傷一つつけられてないよと誇示されただけになり、行き場のなくなったイライラを二つ目のシュークリームで押さえようとして少し乱暴に掴んでしまう。
ぶしゅりとはみ出したクリームが目に入り冷水を浴びた時みたいだった。あろうことか大好きなものに当ててしまうなんて…。
お皿の上に変形したシュークリームを置いてタオルで手に付いたクリームを拭う。さっきまでの幸福感も、イライラも全てを目の前の変わってしまったそれに悲しみに塗り替えられていく。
作ってくれた人に対してとてつもなく申し訳なくなった。
出そうになった、こみ上げてきた切なさを無理やり呑みこんだが気分は最悪だ。
どうして今日はこんなにもついていないのだろうか。
彼に振り回されてばかりの自分の滑稽さに嫌気だ指す。お互いの間に長い沈黙が流れた。
「ごめん…まさかそんなに落ち込むなんて思わなくて」
知的な瞳が伏せられた。声にも申し訳なさが含まれどこか暗い。どうして?どうしてあなたがそんな悲痛な表情をするの?
わたしがそうありたいくらいなのに、奪われた自分の姿に混乱する。ずるい。そんな風にされたらこれ以上何も言えなくなってしまう。
また、黙り込んでしまい沈黙が包んだ。
その静寂を壊したのは彼がぽつりとこぼした心の中の吐露が聞こえたから。
「ほんとはちょっと悔しかったんだ。だから意地悪した」
わたしはいまだに彼とのバトルは無敗を貫いている。それが悔しかったと。
秋の乾いた空気のような焦燥感漂う瞳にズキリと、胸に針が刺さる様に痛い。
「でも…ナマエにはやっぱり負けてばかりだな。苦ってだって言ってたのにオレよりずっと、あの場にいた誰よりもちゃんとしてた。
何にもおかしくなんてなかった。結局君には勝てなかった」
「そんなこと…」
だってわたしは見栄を張っているだけだから、少しでもこの土地に馴染みたくて、認めてもらいたくて、そんな悉く臆病であるわたしが作り上げた偽りの自分。
本当はこの土地のマナーが億劫で、何一つとして自分のものにはできない。
それでも、勝てないというのが、負けているなんて口にするのはあり得ないのだ。
「わたしは…わたしだってカルムくんに勝てない事なんて、山ほどあるよ。カルムくんみたいに相手のことを理解して、相性も含めて精緻な地図を描くみたいなバトルなんて出来ない」
どちらかと言えばわたしは力押しのバトルばかりしてしまう。なにもないところから相手のことを把握して勝利への道を、勝てるという確信を形に変えるなんてことは出来ない。
「こんなに素敵なお店を知らないし、人を安心させる為の思いやりのある言葉をきっと上手く紡げない。
わたしは…堂々とこの土地を歩くことが怖い」
わたしの内向的な性格は筋金入りだ。引っ越してきて、玄関の扉を開けた先で笑ってくれた彼らたちがどれだけ眩しく、「こっちだよ」と呼んでくれた声が力強くて追いつけないわたしを待ってくれていた気遣いに胸が一杯になったかを。
「…はは、お相子だな」
朗らかにあなたが笑ってくれたからわたしの心が温もっていく。
彼もわたしを羨んでいた。わたしも彼を羨んでいた。そのことにきっとどちらも救われた。
「じゃあ、はい交換ね」
さっと崩れたシュークリームの皿が取り換えられ手が付けられていないものがわたしの方に来る。
「それはお詫び」
いつもならきっと戸惑っていただろう。けれどこれが大好きなものなのだからこの時ばかりは遠慮はなりを潜め
「…いただきます」
後日のこと。
雑誌を買うために訪れた本屋。偶然目に入った本。
最低限、緊張しないようにしようとテーブルマナーの本を手に取って目を通すが読み始めてすぐ、あるページに目が留まる。
「使うナイフとフォークの順番は外側から」。ぱたりと一旦本を閉じる。ふうっと息を吐いてもう一度同じページを見ても残念ながら文面が変わることもなく…きっと周りの誰が見ても分かるほど赤面していただろう。
だってカルムくんも内側から取って…いや、違う。
食事中、そっと店員さんが来て使い終わったものと新しいものとを交換していた。あれは後の料理に困らない為の配慮だったと今更ながらに気が付く。
「すみません。ありがとうございます」と言う言葉はきっと店員さんの配慮に感謝していたのだ。彼は分かっていた。分かっていてわたしに合わせてくれていた。
…やっぱり勝てないよ、カルムくん。