short story
□手を惹かれて(ミツル)
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ナマエさんと出会ったのは引っ越す前日だった
トウカシティでジムリーダーを務めているセンリさんに引っ越し先にポケモンを連れていきたいというお願いにジグザグマを貸してもらった
初めて手にしたポケモンが入ったモンスターボール。ワクワクと不安の両方が入り混じって心を落ち着けるまで長い間、そのボールを見つめてしまっていた
そんな僕をただじっと見守ってくれていたセンリさん。はぁっと深く深呼吸をして決意を固める
「行ってきます」
「行っておいで」
ぎゅっとボールを握る手に力を込めて踏み出した一歩。あと少しで入り口だというとき僕よりも先に中に入ってきたものがいた
「しゅぷー」
「わぁっ!」
ふわりと甘い香りが空気に広がって大きな瞳がこちらを見つめている。本でも見たことがないそれはポケモンなのだろうか、突然の悲鳴を聞いて奥から近づいてくる足音と自動扉が開く音が聞こえた
「シュシュプ」
聞きなれない名前を呼んだ声は涼やかだった。日差を遮る麦わら帽子に結ばれる白いリボン。ワンピースの裾が揺れて細い腕や足がこのホウエン地方の日差しを浴びて育ったのかと疑いたくなるほど、どこもかしくも白かった
まるで別世界で生まれ育ったかのように思えてしまった
ふわふわと妖精のように浮いていたシュシュプと呼ばれたポケモンはその声の持ち主を見つけた途端一際嬉しそうに鳴いて飛んでいく
伸ばされた腕の中に納まるまでの一連の動作ですら綺麗に映った
「ナマエくん、よく来たね」
「センリさん…お届け物です」
肩にかけるカバンから出した小袋を渡せば結ばれた口元がほころんだ。とても大切なものを扱うように丁寧に袋の口を開いて中から出したのは写真だった
誰が映っているのかは分からないが、その写真を見ているセンリさんを包むのは温かなものだ
「わざわざありがとう」
「いえ、ハルカさんが一刻も早く見てほしいって。わたしもこっちに来ようと思っていたのでついでです」
「そうかい」
二人の会話を聞くことしかできない僕。これではまるで盗み聞きではないか、といけないことをしているように思えて二人に気づかれないよう当初の目的であったポケモンのゲットに行こうとして
「そうだ、ナマエくん。一つ頼まれてくれないかな」
自分に言われているわけではないのに不思議な力に足を止められて
「ミツルくんに付いていって見守ってあげてほしいんだ」
「ミツルさん」
「…っ」
自分の名前が出て振り返った僕と、センリさんと知り合いである女の子と目が合った。ないだ海のような静けさを持つ瞳から目が離せなかった
「紹介するよ。彼女はナマエくん、少し前からこのホウエンに来ていてね。カロス地方のチャンピオンなんだよ」
「チャンピオン…」
聞きなれた言葉、だがその肩書を持つのが自分よりも少しだけ年上にしか見えない少女が持っているというあまりにも大きすぎる衝撃にそれ以上の言葉を紡げなかった
「彼はミツルくん。今日初めてポケモンをゲットするんだが生憎これから外せない用事があってね。お願いできるかい」
「…わたしでよければ」
とんとん拍子で進んでいく話に何も言えないまま「行こう」とひんやりとした手を重ねられ引かれるままに外に連れ出されていた
草むらに向かう道のりの途中、会話というものはなくお互いに言葉を交わすこともなくざりっと靴底が地面を擦って砂埃を上げる音だけが二人の間を流れていた
「あの、すいません」
さくっと足音が止まる。突然発した言葉に訳が分からないという困った表情はなく、ただ静かに表情を変えることなくそこに佇んでいた
「チャンピオンなのにこんな何も知らないような僕のお願いのために。ナマエさんにも用事があったんですよね」
「気にしないで…それに」
すぐそばを漂うようにしているシュシュプに視線が合うと微笑んだ。それはそよ風のように小さく溶けていったけれど僕にとっては鮮明に残るものだった
「何も知らないならこれから知っていけばいいだけでしょ」
あ…
余りにも当たり前だけれど、温かみを持って広がっていく感覚に心地よささえ感じた
「わたしはチャンピオンだけどミツルさんと何も変わらないよ。ただ少し前を歩いているだけ、あなたと同じポケモントレーナーなんだから」
「それは…」
「違う?」
「い、え」
こんなにも病弱な自分が広い世界を自分の足で旅してトレーナーの頂点であるチャンピオンと同じなんて高くて遠い存在に一瞬眩暈に似た感覚を覚えた
でも、そっかポケモントレーナーか。いつか僕もそんな高いところに行けるのかな…
そうしたらこうやって手を引いてもらわなくても自分で歩けるようになるのだろうか
「ナマエさんっ僕立派なポケモントレーナーになります。そしていつか…あなたに」
挑戦してみせますと心の中で呟いた。どうやらまだその言葉をいうことは目の前にいるナマエさんには恥ずかしくて言えなかった
「うん、応援してる」
やわらかな響きが降ってきた。浮かぶのはシュシュプに向けていたものと同じくらい優しい
「行こう。ポケモン達がミツルさんを待ってる」
そして再び歩き始めた時、胸の中はもう高揚感で一杯で、ほんの少しだけさっきよりも前に出た
こんな駆け出しの自分が普通なら決して会えないであろう別の地方のチャンピオンと関わりを持って、しかも希望をくれた
何でもない普通の言葉、でもそれは小さな魔法のようにささやかな幸福感をもたらした
この偶然をきっと僕は忘れない