Book-short-
□相澤消太に刺激は求めない
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木の葉も色付き、秋を感じられるようになったとある日のこと。いつも通り朝のホームルームが始まるまでの時間を私は自分の席で待っていた。
クラスメイトが教室に少しずつ増えていく様をただただボーッと眺めている。いつも通りの光景。代わり映えはしないが、安定した日々が送れている証拠だ。
ガヤガヤと騒がしかった教室内も予鈴が鳴る頃には全員が着席し、担任である消太さん‥‥‥いや、相澤先生を待っていた。
いつも通りなら予鈴と共に扉は開かれ、気怠そうに目を充血させて、浮浪者のようなボサボサの髪を靡かせながら彼が教室に入ってくる。それがお決まりのパターンだ。だが、この日は違っていた。
予鈴が鳴り終わり、シーンと静まり返った教室ではみんなが不思議そうに顔を合わせていた。
「あれ‥‥?相澤先生こなくね?」
上鳴が拍子抜けしたような表情で呟いた。それに対し梅雨ちゃんも心配そうに続ける。
「どうしたのかしら。こんなこと初めてね」
私も声には出さないものの言葉にできない不安が胸に溢れていた。合理的思考で無駄な時間を使うことを嫌う彼は、いつも時間厳守で行動している。そんな彼が今この瞬間にここに居ないのは明らかにおかしい。
つまり何かあったに違いない。私は小さく唇を噛みしめ、ドキドキと嫌に高鳴る胸を落ち着かせようとしていた。
すると、静かに教室の扉は開かれゆっくりと入ってきたのは禍々しいフェイスマスク姿のエクトプラズム先生だった。彼がこの時間にここに居ることもまた珍しいことだ。
「え、もう1限目スタート?」
瀬呂が驚くのも無理はない。今日の1限目は確かにエクトプラズム先生が担当している数学の授業だ。だが、彼がここへ来るにはまだ早すぎるのだ。そんな瀬呂の疑問にエクトプラズム先生は相変わらずの片言な話し方で挨拶を始めた。
「諸君、オハヨウ。本日相澤先生ハ訳アッテ欠席ダ。代ワリニホームルームハ我ガ行イ、コノママ1限目ヲ始メル」
そう淡々とした声で話が始まった。消太さんが欠席となった“訳”についての説明は一切ない。当たり障りない話が繰り広げられ、時間はあっという間に過ぎていった。私は最初から思考が停止していてエクトプラズム先生がどんな話をしたかなどほとんど記憶に残っていない。とにかく消太さんが欠席したことだけが頭の中でグルグルと回っていた。
そのまま1限目の数学も一瞬で終わってしまった。頭の中に入った新しい知識などない。こんなことではいけないとわかっていても、完全に上の空だった。
私は休み時間が始まって少しの間、席についてただボーッとしていた。授業終了後にエクトプラズム先生に訳を聞けばよかったと後悔したが、それに気づいたときには彼は教室を出てしまっておりもう手遅れだった。
だが、このまま抜け殻のように1日を過ごすわけにもいかない。私は思い立ったように立ち上がると勢いよく教室を後にした。向かう先は職員室だ。そこへ行けば消太さんが学校に来ていない理由がわかるはずだ。
私は足を走らせた。飯田くんに見つかれば“廊下は歩こう!”と注意されてしまうだろう。だが、私の気持ちはもう前へ前へと進んでしまっている。
なぜ廊下は歩かなければならないか。そんなことを考える余裕はなくなっていた。だが、私はその理由を思い知ることとなった。
ドスッ!!!!
「どわッ!!!」
私の耳に届いた誰かの声とともに辺りには鈍い音が響き、私は顔面を何かにぶつけた衝撃でそのまま後ろに倒れ尻餅をついた。
「いったァ‥‥!」
私はお尻の痛みも去ることながら顔面を思い切り打ったことで無意識に鼻を抑えていた。思い切りぶつけた鼻は今にも鼻血が出そうだ。お尻からはジンジンとした痛みが伝わってくる。
どうやら角を曲がってきた誰かとぶつかったらしい。廊下は走っては行けない。なぜなら、このようにぶつかったら危ないからだ。そう思い出した頃には時すでに遅かったが、お陰で私は少しだけ我に返ることができた。
視線を上げると、そこにはプレゼント・マイク先生が立っていた。
「アウッ!鏡見じゃねェか大丈夫か!?」
私のように尻餅も負傷もしていないところを見ると、さすがプロヒーローだと思い知らされる。私は完全にフィジカルで彼に負けたのだ。私はパタパタと汚れた制服を払いながら立ち上がって言った。
「いえ‥‥廊下を走った私が悪いんです。お怪我はありませんか?」
「いや俺は何もねェけど‥‥それよりどうかしたのか?そんな慌ててお前らしくねェな」
プレゼント・マイク先生はそう言って申し訳なさげに尋ねてきた。いつもならもっと英語を絡めた面倒な会話があるというのに、私の普段とは違った様子を察知したようだ。だが、これで職員室まで行く手間は省けた。私はプレゼント・マイク先生に一歩近づくと藁にもすがる思いで口を開いた。
「あの‥‥消太さんが今日欠席だって聞いて‥‥それで、その‥‥‥」
私はモゴモゴと口を籠らせながら小さく言った。消太さんとは学生時代からの仲である彼は、私と消太さんの関係性を全て知っている。そんな彼にここで会えたのは運が良かったと言えるだろう。
「心配でいても立ってもいられなくて、ってか?」
「はい‥‥」
いつも声やリアクションが大きい彼にしてはとても小さな声で言った。私は小さく頷き、プレゼント・マイク先生のサングラスの先にある瞳を見つめた。すると彼はプハッと笑いを吹き出しながら言った。
「なんだそんなことかよ!ノープロブレム!ただの風邪だ。か・ぜ!ガキじゃあるまいし大したこたねェって!」
大袈裟だな、とでも言いたげに笑うプレゼント・マイク先生を見上げたまま私は少しだけ目に涙を浮かべていた。
何かトラブルに巻き込まれたわけではなかった。それを聞けて心底安心することが出来た。だが、消太さんが体調不良で休んだということにまた驚きを隠せないでいた。
それを見たプレゼント・マイク先生は少しだけ焦った様子で続けた。
「あー‥‥んじゃ、そんなに心配なら放課後寄ってけよ」
私はその言葉に力なくニコリと微笑み返すと『そうします』とだけ答えて教室へ戻っていった。
_________
そして長い長い1日は終わり、やっと放課後を迎えた。
私はエクトプラズム先生がホームルームを終えるや否やリュックを手に立ち上がった。
「あれっ、鏡見もう帰んの?」
瀬呂の声が背中から聞こえ、私は足を進めながら端的に答えた。
「ちょっと今日はやることあるから!また明日」
そう言って私は教室を出てそのまま消太さんがいるアライアンスへと向かって行った。私たちが生活している建物と大きさはそう大差はない。ただ、先生達が皆ここで生活をしているというだけあって辺りは人気がなくとても静かだった。
私は慣れた手つきで建物内へ入ると階段を一段飛ばしで駆け上がり、消太さんの部屋まで辿り着きコンコンッと扉をノックした。
ガチャッとゆっくり開く扉から顔を出したのはいつも通りにボサボサの髪を無造作に垂らし、いつも通りの無精髭を生やし、いつも通り気怠そうな目をした消太さんだった。
いつもと違うところといえば、おでこに長方形の熱冷ましのシートを貼っていることくらいだった。
「帰るんだ」
そう言って消太さんは扉を閉めようとしたが、私はガッと扉を鷲掴みにし、それを阻止した。
「帰りません。中に入れてください」
「移ったらどうする。帰れ」
私は自身の足を扉に挟ませ、消太さんの目をじっと見つめて絶対に帰らないという意志を訴えかけた。
「移りませんし帰りません。心配なんです、看病させてください」
私は消太さんの目をしっかりと見つめて言った。そう決めた私には何を言っても無駄だということは、消太さんが誰よりも解っているに違いない。消太さんは数秒沈黙を経た後、諦めたようにドアノブから手を離し部屋の中へと入って行った。
部屋に足を踏み入れるなり目に入ったのは栄養ドリンクのゴミの山だった。こんなものばかり飲んでないでしっかりご飯を食べてくださいよ、と言いたくなるが今日の私はそれを飲み込んだ。
愛猫のミケがノソノソとこちらに近づき私に体を擦り付けてきた。
「久しぶりだね、元気にしてた?」
私はフサフサの毛並みに沿って優しくひと撫ですると、背中に背負っていたリュックを下ろして洗い物から取り掛かった。
「何か食べますか?」
カチャカチャと音を鳴らしながら洗い流していく。消太さんはその様子をジッと見つめているが、いつも以上に目はトロンとして弱々しい。
「腹は減ってない」
彼からの返答を聞いたものの、部屋にあるキッチンは『キッチン』と言うにはあまりに簡易的でスペースも限られている。大したものは作れないだろう。
「りんご剥くので食べてください」
そう言って私は手早くりんごの皮を剥き、食べやすい大きさに切り分けるとお皿に盛って消太さんへ手渡した。
消太さんは渋々りんごを手に取るとシャリッと音を立てて食べ始めた。私は小さな鍋やお玉を取り出しながら口を開いた。
「熱はあるんですか?」
「測ってない。寝てりゃ治る」
消太さんはパソコンの置かれた机の椅子に腰掛け、おでこに貼っていた長方形の熱冷まし用のシートを剥がしてゴミ箱に投げ捨てた。私はそれを横目で見ながら言った。
「寝てないじゃないですか」
「さっきまで寝てたからな。だからもう治った」
そう言って消太さんは開いていたパソコンをパタンと閉じた。その様子に私はため息をつく。寝ていたなんて嘘に決まっている。今閉じたパソコンは電源が入り、先ほどまで画面は煌々と光っていた。今の今まで仕事をしていたのだろう。
私は隙をつくように消太さんの額に手を伸ばし、指先で触れてみた。
「あ、おい‥‥!」
「熱ッ‥‥!思いきり熱あるじゃないですか!」
指先だけでわかるほど消太さんの額は熱を持っていた。呆れたようにいう私に、消太さんはしらばっくれるように視線を晒した。バレたか、とでも言いたげだ。
私はムッとした表情を浮かべると消太さんの両腕を掴み力ずくで布団に寝かせて言った。
「いいから寝ててください!」
「わかったから大きな声出すな‥‥」
嫌々ながらも布団に包まる消太さんを見て私は小さくため息をついた。ゆっくりと目を瞑った彼はあっという間に眠りについていく。やはり相当具合が悪かったのだろう。
私はタオルを水で濡らし、静かに消太さんの額に乗せた。私は音を立てないよう気をつけながら散らかった部屋を一つ一つ片付けていく。時折額のタオルを交換し、首筋の汗を拭う。
一通りの片付けを終えた私はパソコンの置かれた机へ移動し、ギシッと音を立てて椅子へ座った。電源が入ったまま閉じられたパソコンは起動を続けていることを知らせるようにランプが光っている。私はスースーと寝息を立てて深い眠りに付いている消太さんの寝顔をジッと眺めて考えていた。
昔からそうだ。私が体調を崩せば“寝とけ”と言って布団から出ることを許さないのに、自分のこととなれば無茶ばかりする。もっと自分を大切にして欲しい。家族として、師として、私には消太さんしか居ないのだから。
そんなことを考えていたら、私も次第に眠気に襲われ、そのまま机に突っ伏すようにウトウトと眠りについてしまった。ゆっくりと重いまぶたが閉じられ、無意識の中で暗闇に沈んでいく。
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それからどのくらいの時間がたっただろう。1時間か2時間か、まさか半日なんてことはないだろう。とても懐かしく心地の良い感覚で目が覚めた。
私が目覚めた場所、そこは消太さんの布団のなかだった。
思わずガバッと起き上がり周囲を見渡した。一瞬にして頭が冴え、現状を把握していく。
ここは消太さんの部屋で、私は彼を看病するためにここへ来ていた。彼が寝たのを確認し私はそこにある机の椅子に座って一休みしていて‥‥‥寝てしまったのだ。
私は椅子に座って寝ていたはず。それなのに今は布団で目覚め、私の隣には布団に並んでミノムシのように寝袋に包まり寝ている消太さんがいる。やってしまった、と心の中で呟いた。
彼が私をここへ運んだのは間違いない。机で突っ伏して寝てしまった私に気づいた消太さんが私をここに寝かせ、病人の自分は寝袋で寝たのだろう。私はそれを想像して後悔の念に駆られていた。
申し訳ない気持ちで溢れながらも消太さんのおでこに手を当てる。熱はだいぶ引いたようだ。思わずホッとため息をついた。
私は静かに起き上がると、キッチンに向かい。簡単におかゆを作りラップをかけた。そして消太さんに声もかけぬままそっと部屋を後にした。
すっかり日が落ちてしまっている。私は足早に自身の部屋へと戻っていった。
翌朝。
教室へ向かう私の携帯電話が廊下に鳴り響いた。メールが届いたようだ。
『回復した。飯もうまかった。ありがとう』
それはとても簡潔で、消太さんらしい文章だった。私は携帯電話を握りしめ微笑むと気持ちを弾ませて足を進めていった。
寝起きなのかフラフラと前を歩く上鳴の後ろ姿が目に入る。私はそっと近づくと背中を軽く叩き言った。
「ほら!急がないと相澤先生来ちゃうよ!」
「おわッ!びっくりしたァ‥‥!」
私は彼を置いて一足先に教室へと足を踏み入れて行った。今日はきっといつも通りの1日になる。そんな気がしたのだ。
そう考えた私の予想通り、予鈴が鳴ると同時に教室の扉は開かれとても気怠そうに消太さんが入ってきた。教壇に立つ際に一瞬目が合った気がした。
今日もいつも通り全員がしっかりと席につき、姿勢正しく視線を送っている。そしていつも通りの挨拶からホームルームが始まった。
「おはよう」
ほらね、と私は心の中で呟いた。今日もいつも通りの1日が始まる。代わり映えのしない日々。私はそれが一番好きだ。
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