Book-short-
□相澤消太を科学する
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時刻は午後11時。外は月の光もないほど真っ暗で、さらには雨まで降っていた。
湿気の臭いが部屋の中に充満している。決して良い住まいとは言えないこの場所だが、長年住み慣れたせいかその臭いは気にならなくなっていた。
目の前では消太さんが仕事をしている。とても真面目な表情で、時に考えるような素振りをしながら。そんな姿を見ると、彼が教師をしていることを実感する。
私の手元には宿題が広がっているわけだが、集中力が欠けてしまった私は頬杖を付きながらその姿をじっと見つめ、今日の昼休みの出来事を思い出していた。
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「相澤先生のプライベートって謎だよな」
クラスメイトの瀬呂 範太(せろ はんた)は午前の授業が終わるや否や唐突に話を切り出した。
「独身だよな?彼女とかいると思う?」
「なに、いきなり」
私は冷静に且つ少し冷たく言った。その話に興味はない。
「峰田が騒いでたんだよ、女の匂いがするって」
瀬呂がなぜ私にそんなことを聞いてくるのか私には理解しかねるわけだが、そんなことより懲りない峰田くんの言動に私は呆れ返っていた。
「知らないよ。いないんじゃないの?」
私は授業で使った教科書やノートなどを片付け、リュックに入れると食堂へ向かうために立ち上がった。
「家で大声で笑ったりすんのかなぁ、学校じゃあんな感じだけど」
しないよそんなの、と言ってしまいそうになるが、私はその言葉を飲み込み歩き出した。瀬呂も話が続いているからか後から付いてくる。
「あれはキャラじゃなくて素でしょ?」
私はもはや半分投げやりだ。消太さんは確かに謎めいているから気になるのはわかるが、すべてを知っている私にとっては気になるという感情は起きない。
「ゼリー飲んでるところしか見たことねぇし、実はあの服の下はヒョロヒョロなのかもな」
両手を頭の後ろに添え、天井に視線を送って考える瀬呂の言葉に、私は言葉を詰まらせた。
確かに、と私は思った。消太さんと一緒に住んで10年余り、私は一度も彼の裸を見たことがない。血の繋がらない二人だったとは言え、当時まだ幼児だった私に“風呂くらい一人で入れるだろ”と言い放ち今に至るまで一度も一緒に入った記憶はなかった。
お風呂上がりも裸で部屋を歩き回ることなく、きちんと服を着た状態で脱衣所から出てくるため彼の肉体がヒョロヒョロなのかという質問に即答出来ない自分がいた。悔しい、真実を知りたい。私は気になり出したら止まらなくなった感情を午後に持ち越して授業に臨むこととなった。
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そんなこんなで今、私はチャンスを伺っている。彼がお風呂に入るタイミングを待っているのだ。真剣に何かの資料を纏める消太さんの横顔を、私はただじーっと見つめていた。
「どうした」
「いや、別に……何でもないです」
私の視線が集中力を妨げるのか、消太さんはこちらに顔を向けて尋ねた。私はすぐに視線を逸らし、わざとらしく宿題を始めたのだった。
それから20分程経った頃だろうか。消太さんは一区切りがついた様子でゆっくり立ち上がり軽く伸びをした。
「風呂入ってくる」
そう言って少しだけ気だるそうに部屋を出て行く消太さんを私は目で追っていった。消太さんのお風呂の時間はとても短い。まさに烏の行水である。私は部屋を出て行った消太さんを追いかけるように脱衣所へ向かい、ノックもせずに扉を開けた。
ガラガラッ
「…………おい」
そこにはちょうど上半身を脱ぎ終えた状態の消太さんが背中を向けて立っていた。背中でも十分に伝わるほどの筋肉が付いている。予想を超えるムキムキ感に私はマジマジと釘付けになって見ていた。
「風呂入るって言ったろ」
「あ、すみません」
私はしっかりと目に焼き付けたことに満足し、何事もなかったかのようにそそくさと扉を閉じた。普段、私のいる前で筋力トレーニングをしている様子はなかった。きっと自身の部屋で鍛えていたのだろう。私は宿題が広がった机に戻った後も、何故か胸がドキドキしていた。
それから10分も経たずに出てきた消太さんは、頭をタオルで拭きながらゆっくりと部屋に戻ってきた。
「やっぱ、プロヒーローはちゃんと鍛えてるんですね!」
私はどこか嬉しそうに言った。興奮が前面に出てしまっている。
「鏡子お前……また誰かにたぶらかされたな?」
タオルの内側から覗く目は、もはや真実を知っているかのような力を持っていた。
「別に大した理由はないですよ」
私は満足感を得たことで宿題が捗っていた。もう間もなく終わりそうな程に。
「お前がこうゆうおかしな行動を取るときはいつもそうだ」
そう言って冷蔵庫からミルクを取り出した消太さんは濡れたタオルをそのまま自身の肩へとかけ、コップに並々ミルクを注いでいった。そしてそれをゴクゴクと一気に飲み干す。ミルクが通るときの喉仏の動きがどこか色気を感じさせていた。
床にあぐらを掻いてドサッと座った消太さんを、私はチラリとみて少しだけ笑い再度宿題に取り掛かった。
「峰田か……上鳴か……瀬呂といったところか」
鋭い見解を魅せる消太さんに私は少しだけ動揺するのを感じていた。悪気のない瀬呂を職員室送りにしては申し訳ない、宿題をしながらも私は頭にそれが過っていた。
「た、ただの興味ですよ、私の」
瀬呂を庇うために言った言葉が誤りだったと気づいた頃には遅かった。私は言葉の選び方を誤り、変態だと思われても仕方ない発言をしてしまった。
「そうゆうこと言うな、女の子だろ」
呆れたように言う消太さんは愛猫のミケの皿にもミルクを注いでいく。その姿を私は黙って見ていた。もう消太さんのたくましい腹筋は確認したことによりモヤモヤはひとつ晴れて満足感はある。だが、私はそれと引き換えに消太さんに変な目で見られるというこの状況を作り出してしまったのだった。
そしてこの時の私はまだ気づいていない。消太さんの肉体美を知ったところで、それを瀬呂に教えることは出来ないということに。つまりこの一連の行動は、ただ消太さんに誤解を生ませただけの負の出来事であるということに。
私がそれらに気づき、すべてを後悔するのは翌日になってからの話である。
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