波紋の刻

□追跡
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追っている相手は猿である。真実を探るべきはずがまさか己の身の潔白を晴らすために今必死になり猿を追いかけ走っているとは。虚しいやら情けないやら心中は複雑であった。

「……っ、待ちなさい!」

朔夜は山林の中へと入った。呼吸を駆使しても、自然という環境と相手が不規則な動きをする野生の動物ということもあってなかなか捕らえることが出来ない。その間にも猿は身軽く岩の間をすり抜け木の枝をつたっては山の奥地へと進んで行った。ここでは山を知りえている猿の方が一枚上手であった。行く道に飛び出た木の枝や岩の突出した部分で朔夜の肌は傷付いた。初めは避け進んでいた朔夜だが、直ぐに面倒だと小さな木や枝を刀で切り進み道を作った。

僅かに残っていた街の灯りもみるみるうちに遠ざかる。屋敷の裏山から出て来たものだと思っていた猿であったがついに山をひとつ越え向かいの山へと足を踏み入れた。さすがの朔夜も走り通しではどっと疲れが滲んだ。

本当に逃げているのだろうか。ふと朔夜に疑問が湧く。猿は朔夜を気にする様子はなくただひたすらどこかに向かっているように思えた。これではキリがないと思っていた時だった。猿が岩で囲まれた小さな洞穴のような場所に入り込んでいった。朔夜はその手前で足を止め息を切った。

「洞穴……?」

すんと嗅いだ匂いに朔夜は顔を顰めた。そしてそれが視界に入る。洞穴の中ではなくその外。入り口付近から少し離れた場所。重なり合った木々の間から僅かに射した月明かりを頼りに朔夜は目を凝らして顔を引き攣らせた。
血生臭い匂いとそこにあったのは生き物の死骸だ。朔夜はその小ささに一瞬嫌な予感が頭を過ぎったが、その身体の体毛や毛色から想像したそれではないことが分かりどくんと波打った心臓はすぐに落ち着いた。人ではない。
朔夜は胸をなで下ろし再び洞穴へと目を向けた。風の流れからおそらくは奥が袋小路になっているのだろう。先程まで足も止めず草木を掻き分けて進んでいた猿が自らこのような場所に入っていくだろうか。何か妙な感じがする。朔夜がゴクリと唾を飲んだその時だった。

「──っ……!」

朔夜は光の速さで日輪刀を抜いた。肩に何かが触れたのだ。張り巡らせていた警戒の糸を容易く割いてみせたその存在に、自分以外の強いものであることは明白であった。振り返った朔夜。その険しい表情が解けたのは直ぐの事だった。

「……義勇……?」

向けた日輪刀の刃に濃藍の瞳が映り込む。

「……最近……何故か驚かれてばかりだな。……そんなに俺の立ち位置が悪いのか?」

そうではない。他人にあるはずの一言が無いだけではないだろうか。いきなり現れては驚きもするだろう。いや、今言いたいのはそれではない。自分の肩を叩いたであろう義勇の手はそのまま朔夜の肩に置かれた状態で固まっていた。

「……ごめんなさい、つい……。」

朔夜はすぐ様日輪刀を鞘に収めた。咄嗟とはいえ義勇に刃を向けてしまったことを酷く悔いた。どうして義勇がここにいるのだろうか。

「なかなか骨の折れる相手だな。」

「……あれが何か知ってるの?一体いつから……どうして義勇がここに?」

朔夜の問いに義勇は遠い目をする。どこから話そうかとでも考えているのだろうか。それには張っていた緊張も解けて思わず朔夜に笑みが漏れた。

「……初めから、誰も帰るなどと一言も言ってはいない。情報を得るために他を当たっていただけだ。」

「……赤子の……?」

「……その他に何がある?」

朔夜は目を大きく見開いたり細めたりと表情を二転させた。義勇にとってあまり気の進む事でなかったのは確かなはずだ。鬼殺隊として柱である義勇が一利を得ることも無いだろう。それならそうと言って欲しかった。だけど朔夜にとってはこれほど嬉しいことも無かった。言葉で上手く伝える事は出来ないが最近少し義勇の様子に変化が見られると思うようになったのは、義勇が炭治郎たち兄妹を助けたあの頃からのような気がする。義勇にもあの兄妹に関わって何か心変わるものがあったのだろうか。

「義勇が来てくれてよかった。」

ふっと力の抜けたように柔らかく笑う朔夜に義勇は険しい顔を向けた。

「……呑気に笑っている場合ではないぞ。」

言う義勇は何かを警戒している。朔夜も一転して素に返り周囲に視線を巡らせた。

先程は足元の視界は暗く周囲を確認出来ない状態であった。それが月周りの雲が流れるにつれて徐々に露になっていく。

「……これは……」

その悲惨な光景に朔夜は口を手で覆った。土や木、自分たちの周囲には多数の血が飛び散っていた。きっと先程見つけた生き物の血であろうが、いくら自然界とはいえこのような状況が起こりうるのだろうか。時間が経過したものなのか血は赤黒く乾いていた。

義勇が山林の奥、暗闇に向けて日輪刀を構えた。朔夜も目を凝らす。背筋が凍てつく感覚。自分たちへと近づく殺気に満ちた気配。

──鬼だ。

義勇が足を踏み出したのと同時に激しい金属音が鳴り響いた。
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