波紋の刻

□思い違い
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「おかえりなさい。」

いかにも様子可笑しく、しかしながら満面に喜色を湛えて部屋へと入る朔夜に義勇はただ唖然とそれを眺めていた。いつもならば手を差し伸べる為に自然と身体が動いていたものだろうが、入り口の段差に足を引っ掛け躓いた朔夜の姿を義勇は流れるひとつの景色のように見送った。朔夜はよろよろとよろめいた挙句そのまま倒れ込むように床に手膝をついた。義勇はそこではっとする。痛みで膝を摩る朔夜に義勇は顔を歪めたが、そのおかげでこの不可解な状況を冷静に理解する間が出来た。

「……大丈夫か?」

「少しお風呂で逆上せて……」

「……そうだろうな。少し休め。」

酒を飲んだというわけでもなく、身体がいう事をきかないだけで朔夜の言葉ははっきりとしていた。義勇は目を細め小さく溜め息を落とす。床と睨め合いをして項垂れていると、義勇は朔夜の腕を引きその場に仰向けの形で寝かせた。
朔夜を覗き込む義勇。焦点はぼんやりと定まらないが朔夜は虚ろなその目を義勇の容姿に巡らせた。クンとひとつ鼻を嗅ぐ。血の匂いもしない。介抱されているのに可笑しな話だが義勇に大きな怪我は無さそうだと安心した。が、ただひとつだけ違和感はあった。真っ黒な義勇の隊服姿は珍しいなと。頭の片隅に消えて無くなってしまうほど、初め朔夜はそう思っただけだった。でもよくよく考えて襖を開けた瞬間の義勇の姿を思い出す。確かにその時羽織を着ていた。

背中にひんやりとする床の感覚に反して頭部にはふわりとした柔らかい感触。寝かされたと同時に急に義勇の香りが濃くなった。次第に事を理解した朔夜の顔は額から頬にかけて青ざめていった。逆上せも冷める思いだった。

「義勇……ッ」

起き上がろうとする朔夜の額に義勇は手を当て制止した。ずっと視界に入ったままの義勇の表情は何も変わらない。人形のように綺麗なばかりで眉ひとつ動かさない、そんな義勇に朔夜はもどかしささえ覚えた。

「大切な羽織が……」

「いいから横になっていろ。」

「だって髪も濡れているし……」

「そんなのはどうとでもなる。何度も言わせるな。」

そう言うと義勇は立ち上がりどこかへ行った。義勇の瞳は優しかった。いつだって優しい。そんな事は分かっている。自分を犠牲にするかのようなそんな優しさに時々胸が痛くなる時がある。そのうち自分の知らない間に崩れて無くなってしまうのではないかと怖くなる。

遠ざかっていく足音を聞きながらなんて馬鹿なんだと朔夜は自身を恨んだ。義勇は悪くはない。その優しさに甘えてしまった自分が悪い。だけどそれももう遅く、自分が頭に敷いているのは紛れもない義勇の羽織であった。こんなことが赦されては堪らないと朔夜の視界は霞んだ。義勇は構わないと言ったが朔夜はそれをしたくはなかった。

義勇が湯呑みに白湯を淹れて持って来た頃には、朔夜は髪の露で湿ったその羽織を広げ炉の熱で乾かしていた。
その強情さに義勇は朔夜から羽織を取り上げるとまた寝かせようと試みた。片手は湯呑みを持っていた為に、空いた方の腕を朔夜の背中に回すようにして肩を掴んだが、朔夜は首を横に振り義勇の肩を押してそれを拒んだ。それには義勇の口角が僅かに下がり朔夜は心を痛めた。だけど好意を受け入れるわけにはいかなかった。

朔夜にしてみればそのまま何も言わず流してほしかったが義勇もまたそれに留まらず珍しく抵抗をみせた。朔夜が力で適うことはないとそれを分かってだろう。押されまいと義勇は身体に力を込めた。朔夜がそれ以上どうとも出来ないことを知ってそれをする義勇は意地が悪い。それをされて余裕などない朔夜は焦った。すんなり分かってくれるだろうと思っていた義勇に抵抗されるとは予想もしていなかったからだ。
互いに無言のまま意地の張り合いが続いたが、どうしても今の状況では朔夜の分が悪い。態度で示し分かってもらえないのなら言葉でと、朔夜は自分の為に持ってきてくれたであろう白湯を見た。

「羽織のことは御免なさい。任務帰りの義勇にそこまでさせるわけにはいかないから。」

そう言えば、少し間を置いてようやく義勇は静かに朔夜から腕を離した。解放されてほっとしたのは束の間。朔夜は義勇の顔を見てドキリとした。その水のように平穏な表情の裏に朔夜以外の誰が怒りの色を漂わせていると気づくだろうか。怒らせるつもりなどない。だけど何か言葉を選び違えてしまっただろうか。

「怒ってるの……?」

「…………。」

湯呑みを床に置き朔夜の目線の高さに屈む義勇。分かるだろうと言わんばかりに義勇は朔夜の瞳をじっと見つめた。誰だって親切心からの行動を拒否されれば嫌な気もするだろう。自分がそうさせたのだと思うと謝罪の言葉しか思い浮かばなかった。

「ごめんなさい……。」

「俺は怒ってなどいない。謝るくらいなら何故拒否をする?」

「だって、それは……義勇の大切なものを蔑ろになんて私にはできない。分かってくれるでしょう?」

その羽織が義勇にとって意味のあるものであることを朔夜は知っているから。怒っていないと義勇がそう言ったのは、きっとこの状況でも朔夜に余計な気苦労をかけない為の優しさしからだろう。
朔夜もまた分かってほしいと目で訴えかけたがそれは義勇の納得するものではなかったらしい。依然怒りではないと言った義勇の心は朔夜には怒りとして彼のその瞳に浮かんだままであった。
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