波紋の刻

□風柱・二
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襖の引手を引くべきか否か。ここまで来てはみたものの朔夜は義勇の部屋の前で悩んだ。色々あっただろう。やはり今日は声をかけるべきではないなと、そっと引手から手を離し後ろへ振り返った時だった。何かにぶつかった。何かといってもそこは何もない廊下。誰かというのが正解である。

「何をしている?」

「うあっ!」

「…………。」

朔夜は襖に手をつき背中をぶつけた。自室にいると思っていた人物がそこにいたからだ。その人でなくとも他に人のいるはずのないこの屋敷に人がいれば騒動である。柱程の人間となれば日常から気配がなさすぎる。ある意味朔夜は鬼に遭遇するより怖い状況であった。
そんな反応しなくてもといった丸い目をしながら義勇は朔夜の肩からずり落ちた羽織を掛け直した。朔夜は目を大きく見開き義勇を見上げた。

「……目が覚めて、それで……部屋にいるのかと思って……。」

「……街へ出ていた。」

「街へ……?」

義勇のその顔を見て朔夜はふと違和感を覚える。朔夜はそっと義勇の髪を避け細い指でその目元に触れた。義勇は目を細める。

「目の下に隈が少し……顔色があまり良くない。」

心配の色を混じえ朔夜は言う。元々色白ではあるが、外から射す陽の光に照らされた義勇の顔は、やはり少し血色悪く見えた。それでも心配は無用だと言わんばかりに、義勇によってその手は退かされた。

「体調はもういいのか?」

「私は大丈夫。それより義勇は休んだ方がいい。」

義勇の羽織の裾を引き、自室で休むよう誘導しようとした朔夜の手にガサリとした感覚がした。

「任務に出ていて、いつものやつは用意できなかった。」

言う義勇に朔夜は自身の手元を見て胸が詰まる思いがした。任務に出ていた事など百も承知しているとそう叫びたかった。自分の事などそんな事はどうだっていいのだと。朔夜が望んでいるのはそうではない。ただいつも案じるのはその身だけ。なのに嬉しいなどと、矛盾して期待を抱いている自分が憎かった。切なくなるほどの優しさを苦しいとさえ感じた。

本当は言いたいことも話したいことも山ほどあった。だけどそれは我情でしかないと、平常を装い朔夜はその気持ちを思い留めた。なのに手に持たされたそれは、朔夜が街で通い慣れた和菓子屋の印が押された紙袋。泣きそうな表情で眉を寄せる朔夜。意地らしく振る舞おうとする自分の心情を察したのか義勇は目尻を下げた。それに気づき朔夜は俯き加減に視線をそらした。

溢れんばかりの気持ちで満たされて思いが揺らぐ。耐えていた気持ちの糸が切れる。朔夜は義勇の羽織の裾をぎゅっと握り締めた。

「何事もなく無事でよかった……。」

気持ちを吐き出すように朔夜は言った。伝えたのはただその一言だけ。どんな思わしい言葉が浮かんでも、その言葉ひとつに朔夜の想いの全てが詰まっていた。任務より無事に帰還したこと。何の処罰も下らなかったこと。よかった、よかったと、湧き上がる感情に耐えながら小さく声を噛み殺す朔夜に、義勇は朔夜が落ち着きを取り戻すまでしばらくの間そうしていた。

たとえそれが甘さと誰に何と言われても、今だけは素直な気持ちを伝えたかった。

無事でいてくれてよかったと──。
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