波紋の刻

□言葉足らず
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蝶屋敷。傷病人を収容する為の広く明けた部屋には微かに薬品の匂いが香る。部屋には真新しいシーツの敷かれた幾つものベッドが並べられているが、それを埋めているのはただ一人の少女だけ。開放された窓から入った心地の良い風がそこで静かに眠る朔夜の頬を撫でた。
結っていた髪紐は外されており、風で靡いた長い髪が頬を擽ってあまりの擽ったさに朔夜はようやく目を覚ました。何度かお世話になった見慣れた天井。それもあり記憶の境目が曖昧ではあったが特段この状況に驚くことはなかった。

「う……ん……」

今は正午時なのだろう。差し込んでくる陽の光が眩しくて開けた目をまた綴じた。何故か妙な切なさが胸を締め付ける。夢を見ていた気がするが思い出そうとすればするほどぼんやりと曖昧になって思い出せない。身体を襲う気だるさに朔夜は子供のように布団の中に身体を埋めた。
すると少し遅れてパタンとドアの開閉音が聞こえパタパタと軽い足音が鳴った。きっと世話就きの少女の足音だろう。

「冨岡さん、朔夜さんはまだ目を覚まされませんか?」

可愛いその声とは裏腹に聞こえてきた会話の内容に朔夜は一瞬考えて、その言葉の意図を解くとすぐ様布団から飛び起きた。状況の把握に務める自分を余所に、隣のベッドに腰かけた表情乏しい義勇と驚いて立ち竦んだおさげに髪を結った少女の丸い目がこちらに向いた。

「あ、朔夜さん。起きてたんですね。身体の具合いはどうですか?」

少し気分が優れないと言いたいところだったが、太陽のような少女の笑顔を向けられて喉まででかかった言葉は飲み込んだ。

「大丈夫。ありがとう、なほ。」

「それはよかったです!それに、名前覚えててくれたんですね!」

「お世話になた人のこと忘れたりなんてしないよ。」

そういうなほこそ出入りの激しいはずの蝶屋敷でただの一般隊士の自分のことを覚えていてくれたことが素直に嬉しかった。
笑顔で返すとなほは照れたように律儀に頭を深々と下げ、しのぶ様に報告してきますねと言い残し部屋を出ていった。その後ろ姿を見送って朔夜は義勇に向かい合うようにベッドにストンと足を投げ出して座った。

「……居たなら声をかけてほしかった……。」

言うと感情の読み取れない表情をこちらに向け義勇は黙り込む。その深い濃藍の瞳は疑問の色を浮かべていた。

「……寝言を言っていたな。」

「そういうことじゃなくって。」

また間ができて。

「……お前が気を失って運ばれるなんて珍しい。十二鬼月でもないが。」

少し間の外れた回答ではあるが、これもまた朔夜の力を認めている彼なりの声援のつもりであることには違いない。"十二鬼月ではないが、それに劣らない強さの鬼だったんだな"と。他人より少し分かりづらくはあるけれどそう言いたかったのだろう。

「私がまだ未熟な証拠。」

義勇の思考を汲み取っても朔夜は謙遜して苦笑った。その時だ。急に激しい頭痛がして朔夜は顔を伏せた。どうしたのかと問う義勇に朔夜は余計な気を使わせないために何でもないと答えた。それが更に腑に落ちなかったのか、義勇は眉を潜めじっと自分を見つめていた。

「……大丈夫よ。」

あえて念を押すが返事はない。するとしばらくして額に当てていた朔夜の手を義勇の手が優しく覆った。突然のことだった。朔夜は何?と、なんの捻りもない言葉を発した。何かと聞いて返事を求めることに期待出来ないのは重々承知なのだが、驚きの余りに咄嗟に出た言葉だった。朔夜の手をすっぽりと包み込んでしまう大きなその手。それでいて長くて綺麗な指。触れた掌の皮膚の硬さは、この手でどれほどの鍛錬を重ねてきたのか決して口には出さないそのたゆまぬ努力を感じさせる。
視線だけで見上げると義勇はずっと朔夜を直視していた。何かしらこの口から聞き出そうとしているのかそれを待っているのか、その表情はひとつも変わらずただじっと視線だけが交わった。
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