波紋の刻
□色変わりの刀
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その時弾かれ朔夜の手から離れた日輪刀が遠く離れた地面に突き刺さった。朔夜は地に膝を着く。雨が小さな朔夜の身体を打った。濡れた髪の毛がべっとりと肌にまとわりついて気持ち悪い。まるで先程から拭う事のできないこの物言えぬ心の違和感を表しているかのようだ。
「…………。」
どうして刀の色が変わらないのか分からなかった。どうして何も感じないのか、朔夜が期待していたものとは何もかもが違って見えた。
その理由がこの時はっきりと分かった。自分の刃は心から"人"を守る為のものではなかったからだ……。
鬼殺隊の隊士であれば鬼を斬ることが与えられた役割である。それには何の疑問も不満もなかった。だからそうしていた。だが朔夜はぬは見ず知らずの他人を自分の命を掛けて守る。そこに他の隊士ほどの強い思いを抱くことが出来なかった。
鬼殺隊にいる限りその定めに則り鬼は斬る。だが鬼殺隊という居場所は望んだが、鬼狩りという役割を使命として受け入れたわけではない。なのに鬼を斬れば据から解放されるなどと都合の良い話だ。そんなものはただの人助けにも及ばない。
ああ、自分は──……
「戦うことが嫌なんだ……。」
自分が刀を振るうことも誰かが命を張ることも。
「何を言い出すのか。命乞いかと思えば鬼に情けでもかけるつもりか?」
朔夜は虚ろな目で鬼を見上げた。
「そうではない。お前たちが居るが為に、本来笑うべきはずの人間が何故命をかけねばならぬのかと怒りに満ちている。」
鬼は鼻で笑った。
「可笑しな者よ。弱き者は己では何もできないからだろう。お前も直ぐに喰ろうてやる!」
自分は他の者とは違う境遇で鬼殺隊にいる。元々歩幅は別であった。自分の中の刀を振るう理由は人の為であり、人の為ではない。
鬼殺隊が人を守る者であるならば……誰しもが同じ時を生きれるように。同じ目線で笑えるように。自分はその使命にさえ抗う刃を振るう。
──それが自分の刃だ。
この先鬼殺隊に身を置きながらも、時々不意にこの世界を恨めしく思うことがあるだろう。たとえ鬼殺隊に在ることが各々の望んだ道であったとしても。
「水の呼吸、無の型──鏡花水月。」
鬼が切り裂いた場所に確かにいたはずの朔夜の姿はなかった。手応えの無さを感じた鬼はまさかと日輪刀が刺さっていたはずの場所を見た。しかしそこにあったはずの刀はない。
次の瞬間には鬼の視界が歪んだ。同時に水溜まりに映ったのは自身の頸が斬れ落ちる姿。バシャりと完全に頸が地面に落ち鬼は何が起こったのかを理解した。鬼の胴体の隣で朔夜が日輪刀に着いた血を振り切った。鬼が最期に見た風景には刀身が青白く染まる刀があった。
「戦いたくはないけれど、私は刀を抜かなければいけない。己の想いを貫くために。」
朔夜もまた自身の刀が青色に染まっていることに気がついた。これまでどんな剣術を身に付けても変わることのなかった色。それがこの時初めて色を変えた。誰にも理解されないであろうこの想いを、刀が受け入れてくれたかのようであった。ようやく認められたようでそれが嬉しくもあり切なくもあった。
朔夜はその場に蹲った。直ぐにでも発たなければいけないのに。湧き上がる気持ちを抑え切れず滴る雨と共に涙が流れ落ちた。鬼の身体も完全に崩れ去り、遠くから見守っていた老人が恐る恐るも朔夜に近づいた。
「ここでは駄目だ。家へ来て傷の手当てをしよう。」
老人は朔夜の手を引く。朔夜は逃げていなかったのかと少々驚いたが首を横に振った。
「私には次の任務がありますので……」
断ろうとした朔夜だが、老人は半ば強引に近くにあった自身の家に招き入れ傷の手当てを施した。
「助けてもらってありがとう。何もないが……これは、ほんのお礼の気持ちだ。」
老人は柔らかく微笑んだ。帰り際、老人から掌程の木彫りの熊の置き物をもらった。朔夜はたまたま鬼殺隊に身を置きたまたま鬼殺隊として鬼を斬っただけだ。それでもこの老人の未来は"朔夜のお陰で"救われたものになった。その事実は変わらない。そう思うと複雑ではあったが、老人の笑顔に救われた気持ちになったことも嘘ではなかった。
鬼殺隊に長く身を置けば他の者が見ている世界が自分にも見えてくるのだろうか。全てが無理でも少しでも同じ目線に、その世界に近づきたいと思う。自分には多くのものは守れない。ただひと握り。朔夜の守りたいものは今はそれだけだ。世界を守る事よりもたったひとつ。その存在がどれほども大きいのだということを朔夜は自分の胸の中に収めた。
理由は違えど、目的は同じ。
どんな苦境であろうとも、鬼殺隊にいる限り鬼を狩る──。
「早急二西ノ荒野へ迎エ!数名ノ隊士ガ交戦中!死傷者不明!」
傍らを飛んでいた鴉が声を荒ぶらせた。"死傷者"その言葉を聞いて朔夜の顔つきが変わった。立ち止まっている時間はない。
早く仲間の元へと、朔夜は一層足を急がせた。
雨はやがて雪に変わり、肌を突き刺す寒さと夜の闇がこれから進む朔夜のゆく道を暗示しているかのようであった。