波紋の刻

□怒り
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恐ろしく冷たい。それが人であり自分の父親であると知ったのはまだ幼い日のこと。それが人を象った鬼ではないかと兄弟たちも口を揃えてそう言った。子供ながらに朔夜もそれを信じていた。しかしそれが愛ゆえにだということも同じくして知った。母はそんな父とは正反対で厳しくも優しく自分たちを諭した。

昔から母に言い教えられてきたことがある。

"決して人を恨む事をしてはならない"と。

憎しみは何も生まない。どれだけ心清く生きてきた人間でさえも、それひとつで人の心を狂わせる。人間は脆く弱い。一度踏み場所を違えれば自身が憎しみにのまれ溺れてしまう。そして右も左も分からない闇に投げ出され、本当に大切なものでさえを見失う。己の生き様に大切なものが悲しみに暮れ果てるその姿にさえ気づかづに。どれだけ足掻こうと憎しみから幸せは生まれない。それはとても悲しいことだと……。

母は人一倍争いごとを嫌う人間だった。朔夜はそんな母の想いを常に心に守ってきた。だけど、今。自分の中に湧き上がっているものがある。抑えきれない感情が今にも溢れんと心の中で渦巻いている。

今まで沢山の仲間が死んでいった。笑顔で任務へと立った翌朝にはもうその顔はない。皆初めは名も知らない他人である者たちばかりだった。いつしかそれは同士となりかけがえのない仲間になった。そんな仲間が一人、また一人と自分を先置いて死んで行く。ついには自分の手の届くところにいた仲間までもが鬼の手におちた。目の前に、自分はその場所にいたのにだ。少しでも大切な者を守れる力を身に付けたと思っていた。だけどそれは上弦の鬼を前に尽く無力に等しいものであったと思い知らされた。こんな事では手の中から……大切なものが零れてしまう。

それは目前で起きた現実のみならず、安易に大切な者たちの死ですら想像させた。善逸や炭治郎、伊之助。天元や柱の者たち……そして……


怖い……。

皆死んでしまうのではないかと。今まであった日常が全て崩れてしまうことにただただ朔夜は恐怖を感じた。

言い様のない悲しみ。これまで積み上げてきたものが無になる絶望。大切なものが鬼によって殺されるかもしれない、そう思うと朔夜の中に確かに芽生えたのは鬼に対する憎しみだった。


涙が一筋零れ落ち、朔夜は瞳を開けた。長い、長い、それでいて悪夢であった。

「朔夜ちゃん!良かった!ようやく起きた!」

覚醒した朔夜の周囲は騒がしく、慌ただしい足音が聞こえた。眠っている間に世話を焼いてくれたであろう禿の少女たちが朔夜を質問攻める。鬼と争った部屋はそのままに、朔夜は善逸が眠っていた布団に寝かされていた。

鬼が破った窓には応急処置が施され不格好ではあるが木板が貼り付けられ補修されていた。そのため月の灯りすら部屋に射さしてはこず、幸い壊れていなかった部屋の行灯の灯りが暗闇を薄らと照らしていた。部屋の襖の間から射し込む廊下の灯りを見てもまだ夜であり、あれからまだそうは経っていないのだと朔夜はそう思った。しかし飛び交う言葉の一節に朔夜は耳を疑うことになる。

「丸一日も目を覚まさないから心配したんだよ!」

それが耳に飛び込んで来てあれが昨日のことであるのだと朔夜はようやく理解した。少女たちにはまだ休むようにと制止されたが朔夜は布団を払い飛び起きた。驚くことに頭元にそのまま置かれていた日輪刀を朔夜は手に取った。これが刀以外の何物かに見える者などそうはいまい。店の主人に突き出され処分されていてもおかしくはないものを……と、朔夜の心の内を悟ったのか少女の一人が口を開いた。

「それは貴女の大事な物だと思って。私たちも薄々気づいてはいるの。何かいけない事が起こってるって……。それがあれば、それできっともう皆居なくなったりしないんだよね?!」

朔夜は言葉に詰まった。この刀を握るのはこの手で鬼の頸を斬りたいと思うのは、今ここにいる誰のためでもない。どれだけ人々を助け鬼から救ったとしてもいつだって朔夜の優先するものは決まっていた。訴える少女の目にも上弦の鬼に遭遇し追い詰められた今の朔夜には答えられる余裕もなかった。

鬼殺隊失格。何と言われようが、譲れないものがある……。
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