波紋の刻

□上弦の鬼
4ページ/4ページ



「しぶといねえ。」

朔夜は目を見開いたまま自分へ覆い被さる鬼の姿を確認した。髪に挿した煌びやかな簪は間違いない。姿は違うが蕨姫だ。
ふと、ほんの僅かに感じた殺気に反応し朔夜は咄嗟に空いていた左手で鞘を突き出し盾にした。自分の喉笛を掻き切らんと襲いかかる蕨姫の鬼の手を間一髪鞘で受け止めた。蕨姫はその鞘をぎちりと掴んだ。朔夜の右手はというと、蕨姫に手首を押さえつけられ日輪刀も振るえない状態だ。極度に高まる緊張のせいで十分な力が入っていないのか、振りほどこうにも右手はピクリとも動かない。
メキメキと嫌な音が耳に触り朔夜の頬にぱらぱらと鞘の黒い破片が落ちてきた。口角を上げながら蕨姫が更に鞘を掴む手に力を込めると、バキッと音を立て鞘は完全に折れた。ことんと真っ二つになった鞘の端が朔夜の顔横に転がった。動揺していないといえば嘘になる。だけど朔夜はそれを堪え言葉を発した。

「蕨姫……雛鶴という名の者を知らないか?」

「この期に及んで他人の心配とは笑わせる。所詮お前程度どれほどの力があるというのか。」

蕨姫は煩わしそうな態度を示した後朔夜の頬を右手で鷲掴み自身の顔へと近ずけた。息もかかる程の距離。朔夜はゴクリと唾を飲みその眼をじっと見つめた。恐ろしいはずなのに視線を逸らす事が出来なかった。すると蕨姫の眼がぐるんと一転し変化した。朔夜にしてみればやはりとただの答え合わせでしか無かったが、これほど死というものを身近に感じた瞬間もなかった。

"上弦陸"

蕨姫の瞳にはっきりと刻まれているその文字。

「"堕姫"だ。」

蕨姫……いや上弦の陸、堕姫はそう名乗った。

「どいつもこいつも煩い虫には少し黙っておいてもらわなくちゃ、ねえ?」

長く苦しい緊張の中小さく息を吐いた後、朔夜の視界の中で堕姫の長く鋭い爪がギラりと光った。

「……まさか……喰ったの……?」

朔夜の問いに堕姫は妖しく笑った。これまで恐怖と緊張に支配されていた朔夜だったが、この時初めて感情が不安定に揺らいだ。朔夜の額には青筋が浮かび呼吸が変化した。自分の頬を掴む堕姫の腕を朔夜は鞘を投げ捨て左手で掴んだ。

「この手を……放せ……。」

「所詮人間の分際でほざくな雑魚が。お前も傷をつけずに"保存"しておこうと思ったのに。それにお前、アタシがひとりじゃないって忘れやしてないかい?」

堕姫の言葉で朔夜は帯鬼の存在を思い出した。堕姫の背後でまさに今帯鬼が善逸に触れようとしていた。

「やめて……ッ!!善逸に近づかないでッ!!」

「それが叶っていれば今頃床に寝転んでいやしないだろう。」

堕姫の皮肉にも朔夜は身動きが取れずただ見ているしかなかった。帯は巻き付くように善逸の身体を覆いやがて吸収するように善逸の身体を己の体内に全て取り込んだ。驚くことに善逸の姿を模写した帯がそこにはあった。

「……善……逸……。」

目の前で大切な仲間が鬼の手に晒される瞬間に何も出来ず、朔夜は目を見開いたままただ帯鬼に囚われた善逸の姿を瞳に映していた。ぎゅうっと朔夜の頬を掴む堕姫の手の力もより一層強くなりその爪が頬にくい込んだ。

「このまま顎の骨を砕いてあげようか?」

堕姫は笑う。プツリと堕姫の爪先が朔夜の肌に刺さり、やがてそこにできた血の玉が徐々に膨らみを増して頬を流れ落ちた。頬を伝う血液の感覚がこれまで鬼に喰われた人々や同士達が流した血を連想させ、朔夜はただ帯の鬼の姿を見つめたままその目の奥に憎悪を宿した。朔夜の中で何かが切れた。

皆、平和で平凡な生活を送りたかったはずだ……送っていたはずなのに……

ふと堕姫は自身の右腕に視線を落とした。朔夜に掴まれていた手首の部分がミシッと音を立てている。それにより朔夜の顔を掴む堕姫の手の力が緩んだ。それを感じて朔夜は一気に呼吸を集中させた。浅く強く。恐怖よりもそれに勝る怒りや何よりも大切な者を守りたい、そう思う一心に身を任せた。先程まで力の入らなかった右手で日輪刀を大きく振るい、堕姫を投げのけるような形でその手から逃れた。その際に堕姫の爪が引っ掻いたのだろうか、頬に鋭い痛みが走ったがそんなことは気にならなかった。朔夜は体勢を変えると帯鬼へと向かった。間に合えとそう心に願いながら。

しかし思いも虚しく、朔夜の刃が届くほんの寸前に帯鬼は一寸ほどしかない天井の細い木板の隙間からその身を捩らせ消えていった。息が詰まりそうになり思わず天井を見上げたまま放心する朔夜。押し寄せるように襲い来る劣等感と損失感。ドッドッドッと、心臓の音が早くなる。呼吸が苦しい、頭が痛い。追いかけようにもその後後頭部にくらった衝撃で朔夜はその場に倒れ込み気づけば堕姫の足元を眺めていた。頸椎をやられたのか。かろうじで意識は保てているが今度こそ腕も足も動かない。瞬きひとつしてしまえばそのまま暗闇に放りこまれそうだ。

何もできなかった……。

朔夜は朦朧とする意識の中で自分を攻めた。何も出来ないこの状況でどうやって上弦の鬼に立ち向かえようか。半ば生きることも絶望視していたその時に……

「仲間を連れておいで。沢山ね。それまでお前は生かしてやろう。」

堕姫は朔夜にさらなる絶望を与えた。このまま暗闇に放り込まれた方が幾分楽だ。目覚めた時善逸がどうなっているのか知りたくもない。何度も何度もこれまで味わってきたこの劣等感にまだ耐えられる自分がいるだろうか。何度も何度も何人の命も仲間を守れなかった自分にまだこれまで以上の惨めな想いを味わえというのか。

堕姫の笑い声が遠のいていく意識の中最後まで耳に残っていた。
次の章へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ