波紋の刻

□上弦の鬼
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京極屋、潜入二日目。

「善い……善子!」

ついうっかり滑らしそうになった口を手で塞ぎ、朔夜は廊下をうつら歩く善逸を見つけ足並みを揃えた。初日の張り切りを見せていた善逸とは違いどこか勢いが無くなっている。

「ああ、朔夜ちゃん。俺はなんだか自分を見失っていたみたいだよ。」

「そんなことより、昨晩ここの客人から気になる証言を得たんだけど……」

「──ちょっと待って朔夜ちゃん……一大事だ。」

急に勢いを吹き返した善逸。一大事、そう聞いて善逸もまた鬼の情報を得たのだろうかと朔夜は善逸の次の言葉を待った。

「女の子が泣いている。」

しっかりと善逸の目を見て頷く朔夜。善逸があまりに真剣に言うものだから朔夜もまた善逸の言葉を真正直に受け取った。一目散に掛けて行く善逸の後を追いながら、朔夜はまだそれが鬼に繋がる行動なのだと信じていた。後から思えば女に対して善逸はいつもそうであるのだが。この状況でそれが個人的な思惑の末の行動だとは思いもしなかった。二人が辿り着いた先はひとつの部屋。

「ここは……」

朔夜は部屋を前に立ち止まる。誰かの個室であるようだがそこは酷く荒れ果てていた。片付いていないといった荒れようではない。それは誰かが意図的に"こう"したものだということが見て取れた。ふと部屋の中で啜り泣く禿の少女に朔夜と善逸は気づいた。荒れ果てた部屋の中心でぽつりと少女は肩を震わせていた。一体何に怯えているのだろうかとこの時の朔夜らには想像もつかなかった……。善逸が少女の傍らに寄り宥めている間、背後に迫る不穏な気配にも気付かずに朔夜は部屋の中へ視線を巡らせていた。

部屋中の華やかな装飾の数々。ここではこの環境が誰しにもそう与えられるものでは無い。……ここは花魁の部屋か。そう安易に想像は出来た。

その時だった。廊下で立っていた朔夜の横を音もなく過ぎ、あまりに静かで美しい装飾を纏ったその女は善逸の背後へと立った。

「アンタ人の部屋で何してんの?」

女が善逸に問う。胸の奥底に響く心臓を貫かれるようなその声。朔夜は安易に背後を許したこの女こそが鬼であるとそう確信した。そしてそれは上弦の鬼ではないかと、頭で考えるよりも早く感じとった朔夜の身体は震えも知らずただ硬直していた。
女と善逸の掛け合いの後に女は禿の少女を激しく咎め手を上げた。禿の少女が耳元から出血するのを見てついに善逸は女のその手を掴んだ。善逸もまた早々に目の前のそれが鬼だと気づいていたのだろう。善逸のその目は底の知れない脅威を前にした色に染まっていた。いや自分だけにそう見えたのかもしれない。朔夜自身がそうだから。

女の目に怒りが浮かぶ。はっとして瞬時にそれを察知した朔夜は女を避け部屋の中で身を疼くめる少女の元へ移動した。
それ程の間はなかった。こんな時でも考える暇さえも与えてくれないのが鬼殺隊の宿命だ。頭の中に音は無く目に見えるものは白黒のゆっくりとした世界。朔夜は今やるべきことを理解しそれをただ全うした。目の前の脅威を悟りながらも善逸が少女を庇おうとしたように、朔夜もまた久しく感じたことのないこの物恐ろしさを抱え殺し少女を守らんと動いた。
朔夜が少女の元へ辿り着いたのと同時に入れ替わるように風が切る。朔夜には女が善逸を払い除けたただそれだけに見えたのだが、凄まじい速さと力によって善逸は吹き飛ばされた。襖をなぎ倒し部屋数個分の距離を浮遊してようやく善逸は止まった。

「善逸……ッ!!!!」

ただ手を払われただけで……!

なんてことだ。朔夜は真っ青な顔ではるか遠くに気を失って項垂れる善逸の姿を見た。

「で、お前は一体何者だい?」

「……ッ……」

ゾクり。朔夜の全身を悪寒が走る。女のその鋭い眼光は善逸ではなく朔夜に向けられていた。今の動きで女は自分が鬼殺隊の人間だと悟ったかもしれない。否応を問わせない強圧がそれを語っているようだった。朔夜は恐怖に侵されながらも少女を背に隠すように守った。これだけ派手に存在を主張しているのにもかかわらず何故か女は鬼の姿を見せなかった。朔夜もまた一般人のいる中で下手に手出しができないと考えていた時、騒ぎを聞きつけた店主の男がその場に割って入ってきた。そんなものでこの鬼が抑えられるものか、そう思ったのだが意外にあっさりと女……いや、蕨姫という名の己の誠の顔を隠した鬼はこの場を収めた。

「…………。」

そこまでしてここに居座る程の利が鬼にはあるということなのだろう。人の中に溶け込むことの出来るこの環境は人を狩ることにも適しているのだ。何にせよ鬼が牙を向けない以上ここはひとまず引き下がるしかないと朔夜は不自由だった呼吸がようやくまともにできた。

「その子の手当てなら私が……。」

蕨姫が店主と会話をしている隙に朔夜は禿の少女を他人に任せ、善逸の腕を肩に回し足早にその場を後にした。蕨姫を背にしているはずなのに少し気を緩めるとその場に膝から崩れ落ちてしまいそうなほど、完全に蕨姫の視界から姿が見えなくなるその時まで朔夜は背から串にでも刺されたようなそんな殺気を感じていた。
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