波紋の刻

□追跡
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女性の屋敷は街の西方の外れにあった。屋敷を囲むように造られた立派な塀に西洋家屋の造り。まだ日本家屋が色濃く残る現代にはその一角だけ一風変わった雰囲気が漂っていた。
屋敷のすぐ裏には山林が広がっている。朔夜はぐるりと屋敷の周辺を一周すると裏へと回った。というのも、使用人の者なのか正門からはこの時間にしても尚多くの人の出入りがあった。正面に構えていては自分こそ不審人物だと見間違えられてはいけないと思い朔夜は身を隠すことにした。
そもそも今回の事を女性にすら伝えてはいない。真実はまだ分からないが知らぬ方がいいこともあるかもしれない。いらぬ期待を持たせない為にも朔夜は一人で行動する事を決めた。どうするべきが正解かは分からないがそれでも少なからず大切な存在を失くした多くの人の痛みを見て来たと思う。せめて真実を知ることが残された者の為でもあり居なくなった者の為であるだろう。

朔夜は草むらに身を寄せた。日が落ちたこともありもう目立つことは無いだろうと、日輪刀に被せていた布を外し腰に刺した。それに夕刻時は念の為にも刀を直ぐに抜ける状態にしておきたかった。

どれほど時間が経過しただろうか。軽い睡魔が朔夜を襲った。屋敷の灯りも消えあるのはただ夜の静寂だけ。鬼の気配のひとつすら感じない静かな夜だ。やはり何の情報も得ることが出来ないのだろうか。
ふと空を見上げるとあまりに見事な満天の星空が広がっていた。しばらくその絶景に酔いしれていた朔夜だが無性に心寂しくなった。同じようにこの空を綺麗だとそう感じられる人間ばかりではない。朔夜はそっと目を閉じて瞳にその景色を焼き付けた。皆が同じ景色を見れる時が来るまで自分だけはこの空を忘れないでおこうと。

通りの人気も薄れて来た頃、少し辺りを散策しようと立ち上がったその時だった。ガザガサと山林の中から人影のような何かが飛び出し朔夜の横を過ぎ去った。きらりと光る眼光。朔夜は瞬時に視線を向けたが暗闇でその姿をはっきりとは捉えることは出来なかった。左手を鞘にかけ朔夜も草むらを飛び出したが、その瞬間朔夜の顔から色は抜けた。追っていたはずの影はゆうに二間はあろうかという屋敷の塀を軽々と飛び越えその敷地内へと侵入したのだ。それには朔夜も驚きを隠せなかった。
これほどの高さの塀を呼吸無しに越えることなど既に人間業では無い。やはり鬼であるのかと予感を巡らせるが、気配はそれのものでは無かった。得体の知れない生き物に気味悪さすら感じる。鬼と対峙する時とはまた違った緊張が朔夜に巡っていた。

こんな時、義勇も一緒に居てくれたら……。

朔夜ははっとして首を左右に振った。そんな甘いことを考えてはいけない。自分でどうにかしなければと、朔夜はすうっと息を吸うと足に意識を集中させた。朔夜はぐっと足に力を入れ地面を兆脚した。塀よりも高らかに飛ぶと先程の影が屋敷へと向かっていくのが見え朔夜はそれを追い掛けた。

影は裏手から屋敷の横を過ぎその正面へと回った。朔夜も続いて角を曲がるがそこでその姿を見失った。今し方追っていたはずの影の姿はどこにも無くそこには広々とした庭が広がっているだけであった。対面の塀を越えたということもないだろう。すぐ後ろから追っていたし塀までは相当な距離がある。庭木、庭池、隠れられそうな場所を見渡すがその姿は何処にもない。
どういう事だと朔夜は眉を顰めゆっくりと屋敷の玄関の方へと歩いた。その時だった。ガチャンと屋敷内から陶器の割れたような大きな物音が聞こえ人の悲鳴と共に一斉に屋敷内の灯りが灯った。
そのすぐ後、二階の開け放たれた窓から先程の影が飛び出て来た。それは朔夜の横に華麗に着地すると朔夜を気にすることも無くすぐ様また塀の方へと向かって走り出した。朔夜は呆然と固まっていた。灯りが灯ったお陰ではっきりと捉えることができたその姿はなんと猿であった。猿はその手に食べ物や金属品を抱えていた。

「……奥様!こちらです!不審な者が逃げ出したのは!」

朔夜が虚をつかれていると、先程猿が飛び出してきた窓から使用人であろう女性が声を張り上げながら姿を現した。
指を指された先にあったのはちょうど朔夜の姿だ。猿などもうとっくに屋敷の塀を越えようとしている。朔夜に釘付けられている使用人に猿のその姿が目に入っているとも思えない。使用人はその場にいた朔夜の姿を確認して酷く驚いた顔をすると改めてその身を震わせた。

「た、帯刀……っ……!」

朔夜もまたそれを言われ腰にある日輪刀を見た。弁解する余地も無い。すると使用人の隣から昼間街で会った女性が顔を覗かせた。女性は朔夜を見るとなんとも言えない表情で言葉を失っていた。それは朔夜も同じであった。

「…………。」

これは非常に不味い事態であることに違いない。朔夜は誤解を説く事もせぬままにすぐ様猿に続き塀の方へと駆けた。
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