波紋の刻

□思い違い
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自分と義勇は恋仲なのかと人に問われることがある。でもそれは違う。明確な言葉での約束を交わしたことも無ければそのような感情を伝えたことすらも無い。義勇にしてみればそうやって噂立たれることですら迷惑な話だろう。

長い間鬼殺隊の隊士として死線を共にしていれば多少の感情移入もすることはある。でもそれは人を選ぶものでもない。仲間としての意識がそうさせるのだ。ただ行く宛てが無いというだけで自分をその屋敷に置いてくれるのは、朔夜の事情を知っている義勇なりの慈心それだけだと思う。もちろん義勇が嫌というのならばいつだってこの屋敷を出ていく心構えはある。だけどそう思うと少しだけ唯一の帰れる場所が無くなるということは朔夜にとっては切ないものであった。

主が不在の義勇の屋敷。竹で庭に作った打ち込み台を相手に朔夜は日が暮れるまで一日の殆どの時間を鍛錬に費やした。今一度己の呼吸を鮮明に試した。次こそは刀を折らぬように、手の届く全てのものを守れるようにと。朔夜は自分自身の戒めでもあるかのように打ち込み台に木刀を打ち付けた。義勇の帰りを待ちながら数日をそうして送った。

この日の夜も朔夜は昼間の汗を流すべく風呂場へと向かった。全身を流し終えると湯槽に浸かり疲労した身体を癒した。食事と睡眠の時以外はほぼ木刀を手にしている。それでもまだ足りないくらいだ。どれだけ鍛錬を積んでも柱には到底及ばない。自分が前に進めば進むほど目標もまた先へ先へと自分の遥か遠くを行く。
朔夜は両手を広げ見つめた。歳頃の娘とは思えないほどその手は酷く荒れていた。掌に出来た血豆が裂け湯が滲みる。
普段朔夜は指先だけが晒された革製の手袋を履いている。大きくは受けた技の反動を軽減する為のものであるが、この手を隠す意味でもあった。とてもではないが街で見かける自分と同い歳位の娘の綺麗な手とは程遠い。
そこまでやっても朔夜には自信が無かった。どうすればこれ以上に力をつけることが出来るのだろうかと、湯槽に映る自分の顔は情けない表情をしていた。

本当に耀哉の与えてくれた階級程の力が自分には備わっているのだろうか。朔夜は未だに心を悩ませていた。当然、高い階級の者はそれなりの立ち振る舞いをしなければならないし今以上に戦いの主戦に立つこととなるだろう。それが自分に務まるのだろうかと朔夜は想像以上の重圧を感じていた。そしてまず、己は生きることができるのかと……。それを誰かに話すこともなく鍛錬を積むことでしかその思いを打ち消すことはできなかった。

努力しか自信に繋げる術はない。自信は自分自身でつけるものだ。努力せずして報われた結果などただの傲りでしかない。

「……ふうっ……。」

朔夜は小さく溜め息をついて鼻下まで湯に沈んだ。考えても考えても深みにはまる。夜はまだ冷え込む。外気の寒さもあり湯槽から上がりたくない気持ちもあってつい長湯をしてしまった。いけない、と思い立った頃にはそこに疲れも加わって足元がふらついた。どうにか脱衣し廊下へと出たが思うように力が入らなかった。
身体中に熱がこもっているようで辛かった。直ぐにでも自室で横になりたいところだったが、廊下を歩いていると廊下の奥に灯りが灯っていることに気がついた。

義勇は朔夜と違い帰還の際に便りをよこすことはしない。自分の屋敷に帰るのだからそれも当たり前といえば当たり前なのだが。だから風呂から出て居なかったはずのその人が何食わぬ顔でそこにいることなど珍しいことではなかった。義勇が帰って来たのだと朔夜は期待を持って灯りのする部屋の襖を開けた。
すると炉の前に座ったままうとうととうたた寝をいている義勇がいた。疲れているのだろうか。声をかけることを躊躇った朔夜に、義勇は気配に気づいたのか重そうな瞼を上げて朔夜を見た。何か喋ろうとしたであろう義勇は、ふと口を開きかけて言葉を詰まらせた。朔夜の姿を見るなり面食らった顔を作りそのまま表情を固めた。

しなやかな長い黒髪は水を滴たらせ、炉の炎の光を浴びて鮮やかな紫光の黒を強めていた。緩んで少し開いた口許に、その頬を薄紅に染め黒眼を流す朔夜。風呂上がりの寝間着姿など義勇は再々見慣れていたが、今義勇の目の前にいる朔夜は普段とは違う雰囲気を漂わせていた。
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