波紋の刻

□風柱・二
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実弥の口から痛いなどと聞くことは多分これが最初で最後であろう。悶絶しながら朔夜を睨みつける実弥。実弥の怒りに触れて朔夜は即謝罪した。

「勝手な事を……申し訳ございません。けれどこれは塗り込むだけでよく効く薬なのです。」

「テメェ……謝れば済むと思ってんだろゥ。余計な事をするんじゃねェ……。」

「…………。」

低く唸る実弥の声は聞こえていないと朔夜は自分に暗示させながら薬を塗布し続けた。本来ならば布で被って傷口を外気に晒さないようにするべきなのだが、多分それまではさせてもらえないだろう。せめてこれだけはと実弥の威嚇を押し切って薬を塗り切った。

「しばらくすれば痛みも楽になると思います。」

「何、得意げに言ってやがるゥ。」

「も、申し訳ございません……。」

視線を下げる朔夜に、実弥はそこでようやくその口元が震えていることに気がついた。実弥は自分が忿怒したせいかと思いはしたが、今更そんな事で一々動揺するような珠でもないだろうと結論付ける。一般隊士としては珍しい、それも実弥自身に対する妙な威勢の良さだけは認めていた。実弥は処置が施された自分の腕の傷口に目をやった。誰が見ても特に慌てだてるような命に関わる程の怪我ではない。では何故かと不可解な朔夜の様子は実弥の不信感を煽った。

「どうしたァ?」

「……何でもございません。」

「何かと聞いてんだァ。」

問うているのに本心を語ろうとしない朔夜に気が長い方ではない実弥は苛々を募らせて語尾を強める。朔夜は一瞬眉を引き攣らせ驚いたような困った表情を浮かべ実弥を見た。何かを言おうか言うまいかと悩んでいるのは実弥の目にも見て取れた。実弥は朔夜の黒い瞳の中に映し出される自身の姿を見た。

「いえ……こんなこと不死川様に言うべき事ではないと思いまして……」

「何だァ?言ってみろォ。」

朔夜の瞳が揺れる。促され朔夜は言いにくそうに睫毛を伏せた。その間も話を急かす実弥の威圧を朔夜は感じていた。

「この程度の怪我で済んだものを少し違えればと思うと、とても恐ろしく思うのです……。」

朔夜の声は震えていた。同時に処置を終えた朔夜は実弥から手を離した。朔夜は薬の容器を握り締めたまま、それを言って実弥が気分を害してはいないかと恐る恐るその様子を伺った。こんな甘い考えの人間を実弥は間違いなく嫌うだろう。きっと落胆したに違いない。
実弥は言葉も発さずその表情を固めていた。ああ、やはりと朔夜の想像した通りだった。こんなこと義勇にすら口にした事がない。聞かれたとはいえ、よりによって実弥にと朔夜の心境は絶望的であった。しばらくして実弥が口を開いた頃には、もうそこに怒りの感情は感じられなかったが朔夜は後ろめたい気持ちに襲われていた。

「それを一々考えて鬼殺隊が務まるとでも思ってんのかァ?」

「最もです。私もこの感情が恨めしく思います。」

厳しい言葉には変わらないが、もっときつい言葉を投げられると思っていた朔夜には予想外に柔らかい言葉に聞こえた。そして朔夜は自身の消極的な面に関する返答だけは早かった。そんな朔夜に実弥は深く溜め息をつくと立ち上がり履物の砂埃を払った。実弥は何も言わず肩を小さくする朔夜を見下ろした。何かを言われるよりもその無言の間が逆に朔夜に不安を与えた。これ以上自分の内を晒し軽蔑をされたくはない。そんな事ばかりを考えていたのだが。

「……冨岡の野郎はどうしたァ?」

突然だった。それはまた朔夜の予想から外れた実弥の言葉だった。不意に出た人物の名に朔夜は驚きを隠せなかった。しかしそれ以上にその名を出せば僅かに顔を強ばめた朔夜の反応を実弥は見逃さなかった。

「冨岡様は昨夜より遠方への任務に経たれました。冨岡様がどうかされましたか?」

「……いや。」

一見平常心で取り繕ってはいるものの朔夜のその声は不安の色を含んでいた。上手く誤魔化したつもりではあるがそれを実弥が気づかないはずもなく、朔夜もまた実弥に試されたのだと悟った。ただの気まぐれでその人の名を出すことなどしないだろう。それ以上何か問われるわけでもなくその真意はわからなかったが、立ち去る足音を後ろ耳に聞きながら朔夜はどこかほっとした。

「傷の手当て、礼を言う。」

過ぎ去り様確かに聞こえたその言葉に、朔夜は地面を見つめたまま大きく目を見開いた。朔夜はすぐに振り返ったが昨日と同様に実弥の背中しか確認出来なかった。

「不死川様……」

その背中に言葉を投げ掛けようとした時にはもう実弥の姿はそこにはなかった。朔夜もまた昨日の刀の件での礼を言いそびれたと後になって後悔した。朔夜は誰もいなくなった空間に小さく息を吐いた。

昨日は結局、本部を後にし義勇の屋敷へと帰りついたが直ぐに指令で任務へと経った義勇とは会話を交わす間もなかった。
実弥に義勇のことを聞かれその不安に僅かでも気持ちが揺らいでしまった自分が情けない。黙ってその帰りを待つことが出来たのならば、こんなに震えるほどの気持ちはないだろう。不安はどこまでいっても終わりを知らせてはくれない。人聞きに戦場を共にした事もない隊士の死を聞くことですら朔夜にとっては耐え難いものであった。例え怪我のひとつでもそれは変わらない。

「どうか……皆が無事でありますように……。」

朔夜は静かに瞳を閉じた。
朔夜は人の為に命を賭ける全ての者の明日の為に願った──。
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