波紋の刻

□遊郭潜入
3ページ/4ページ



特段変わった様子もなく潜入して一日。

べんべん──。
和楽器、三味線の力強い独特の音色が京極屋に響き渡っていた。

「あの子三味線上手いわね……。」

先輩遊女らをも思わず聴き入らすほどの腕っ節。それを奏でているのは善逸だった。耳が良い善逸にとっては音を聞くだけで同じように楽器を弾くことはお手の物で、良くも悪くも善逸は吉原で生き残るための才能を身につけていた。

「それに比べて貴女……何か芸はできないの?特段話術も無さそうだし。ここでは何もない人間は生き残れないわよ。」

朔夜もまた感心して善逸の三味線に聴き入っていたが、先輩遊女の言葉で形上ではあるが今は自分も遊女である事を思い出した。その朔夜に対する皮肉の言葉に普段なら一目散に善逸が割って入りそうなものだが、よほど天元の事を根に持っているのか善逸は狂ったように三味線を弾くばかりでこちらには意識がなかった。

「芸、ですか……。」

「雑務ばかりじゃねぇ。客の一人でも取ってもらわないと。」

そう言って先輩遊女は溜め息を落とす。怪しまれないように要領良く雑務をこなしながら偵察を行ってきた。善逸が際立っていてくれていたお陰で割と自由に動くことが出来ていたが、さすがにそれだけでは浮きだってしまう。なるべくなら他事に時間を費やす事はしたくはなく何よりも任務に集中したいものなのだが。これもまた任務の内……そう割り切り、朔夜はチラりと遊女の手に視線を落とした。

「少し、それをお借りしてもよいでしょうか?」

そう言うと朔夜は遊女の持っていた三味線を手に取った。

「あんた、三味線なんか弾けるのかい?」

周りの遊女たちからは俄に信じ難いといった声が聞こえた。朔夜は返事の変わりに静かに弦を弾いた。懐かしい感覚。善逸とはまた違った柔らかな三味線の音色。朔夜は詰まることなくひとつの曲を弾きあげた。それには遊女たちも驚きを隠せない様子だった。

「もしかして名家の生まれかい……?」

遊女の一人がぽつりと漏らす。特段華やかなわけでもなく静かにいればさほど目立ちはしない。しかし雑務ひとつをこなすにしてもどこか繊細で気品感じる振る舞いにただならぬ雰囲気を感じている者も少なくはなかった。

「いえ、昔母に少々。」

そう言い朔夜は静かに微笑んだ。そんな時だった。善逸を含めた数人の遊女が座敷へ上がるよう声がかかった。朔夜はというととりあえずまだ遊女らの身形を整える役割に就いた。化粧や御髪を整えてやると遊女は客を待たせるまいと忙しく部屋を出ていった。その後に続く善逸も一人前に遊女の背中であった。

「朔夜、悪いけどこれ洗濯場へ出してきてちょうだい。」

「わかりました。」

先輩の遊女に頼まれ数枚に重なった肌着を持ち朔夜は部屋を出た。廊下を歩いている途中、横切る座敷からは襖越しに三味線や琴の音色と共に楽しそうな笑い声が聞こえてきた。ふうっと溜め息を着いたのも束の間、朔夜は先程までの柔らかな表情を消した。

愛想笑いほど疲れるものは無い……。

皆座敷へと出払ったこの機に少し詮索でも入れておこうと考えながら廊下の角を曲がったその時だ。

ドンッ──!

出合い頭に人とぶつかった。思わず後ろへ二三よろめいたが倒れまではしなかった。しかしながら大変なことにぶつかった相手がその風貌から客であると分かり朔夜は慌てた。完全に注意を怠っていた。

「申し訳ございません!お怪我はございませんか?!」

朔夜は持っていた肌着を投げ置いて客の男性の元へと駆け寄った。余計な問題事は避けたいのに。こういう時に限って何かと面倒事になる性分を恨みたい。

「──お客様!どうされました?!もしかしてその娘が何か粗相を──?!」

朔夜の後ろから遣り手の女が血相を変えてやってきた。同じように朔夜の顔も青ざめた。客の言い様によっては自分はここに居られなくなってしまう。
次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ