長編小説

□兄妹
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今朝は時計のアラームで起床しようと思っていたのに何故かアラームもスヌーズも機能しておらず、更に何故かお兄ちゃんは寝起きの私を見下ろしていた。朦朧とする意識と、ぼんやりと映る視界で今がどんな状況なのか理解する事に多大な時間を要した。何も分からない私は一先ず距離を取ろうと体を起こすが、少し焦った様子を見せたお兄ちゃんによって再び布団の中へ戻される。

「おいおいまだ寝てろって」
「…なん、で」
「お前自分で分かんないの?」

何の事だかと小首を傾げると深く溜息を吐かれてしまった。そんなオーバーな反応を示さなくても良いのではと思ったが、徐ろにお兄ちゃんの掌が私の額に伸びて添えられる。それも、心底不安気な表情で。

「熱あるよ、休まないと。」
「熱?」
「昨日の夜からやけにフラフラしてると思ったら。眠いだけとか言っといて今朝になって熱上がったんだろ。なんでお兄ちゃんに言わねえの」
「いや、私もまさか熱だとは…ゴホッゴホッ」
「ほら咳出てきた。学校にはもう連絡入れておいたから、今日はしっかり休め。な?」

兄にしては珍しく生真面目な事を言う。なんて頭の片隅で考えてみるも、汗ばんだ頬に指の甲をなぞり微笑んでいるお兄ちゃんを見ると余程心配してくれていたのだと気付き体の力が抜けていく。気遣いも気配りも看病も出来る、妹の自分が言うのも難だがモテなくは無い筈なのに未だ彼女がいないなんて、一体職場ではどんなイメージを持たれているのやら。

「お兄ちゃん。」
「ん、何」
「トイレ行きたい」
「分かった、一緒に行こう。」
「…ばか。」

貴方が私をずっと見下ろしているから起き上がれないんだと告げて無理矢理布団を剥ぐと、本当について来ようとしているお兄ちゃんを部屋の扉を閉めて閉じ込め早々にトイレに向かった。兄の洞察力は計り知れないと、未だ過保護っぷりを止められない兄を奇妙に思う反面、親代わりとして私を長年助けてくれている優しいだけでは到底言い表せない善意の塊なのだと、こうなった時こそ感謝してもし切れない。

「食欲は?」
「ない」
「欲しい物は?」
「ない」
「水飲む?」
「さっき飲んだ」
「じゃあお兄ちゃんが全身の汗を拭いて」
「しなくていい」
「熱の時くらい甘えてもいいんだぞ?」
「ない」
「ない、って…傷付くな」

トイレから出た後再び部屋に戻ると、前言撤回したいくらいに言い寄られたので早急に寝てしまいたい。一応病人なのだから安静にさせて欲しいのだが、この善意の塊は何かしてあげないと気が済まないようで布団に入った私の元から一歩も離れてくれない。

「そんなに見られてると、寝れないんだけど」
「よし、子守唄だな」
「あーーー、違う。私が言いたいのは」
「ああキスしたいのか」
「…いい聞いて?私が言いたいのはこ」
「子守唄!」
「だから違うって!ゴホッゴホッ!」

溺愛している妹がこんな状態なのにこの男容赦無さすぎるのではないか。そう思い睨み付けても相も変わらず表情筋が固くダメージが見受けられない。私は仕方ないと短く息を吐くとここまではっきり言うのも申し訳ないが、伝える事にした。

「あのね、私もう子供じゃないから。寝れば治るし、お兄ちゃんがいなくても大丈夫なの。それに」
「今日のお兄ちゃん、なんか鬱陶しい…。」

私は恩を仇で返す最低な妹だろうか。心配してくれているだけのお兄ちゃんに、一時の気持ちであれそんな非道な台詞を吐いてしまうなんて何をしているのだか。そう思う気持ちが六割、残りの四割は心配が最高値を超えて文字通り鬱陶しく感じてしまう事への疲労だ。会話を交えるだけで、些細な音を聞き取るだけで頭痛が起こるくらいには熱が上がっていてこうなると最早一人の方が結論楽なのだ。

「…そっか、すまん。お兄ちゃんちょっと、毎度の事ながら焦ってた。ごめんな」

そう、お兄ちゃんは私が風邪を引く度に仕事に支障が出てしまう程軽いパニックを起こしてしまう。幾ら妹だからと言ってそれは重症なのではと思っているのは私だけではないだろう、それ故お兄ちゃんの仕事の迷惑にならない為にも日頃から体調管理はきっちり行っている筈だったのだが。流石季節の変わり目と言うべきか呆気なく負けてしまった。お兄ちゃんは申し訳なさそうに私の前髪を梳いて撫ぜると、薄く笑って私の部屋を出て行った。扉が閉まった瞬間から訪れる静寂と、もっと食い下がると思っていただけに意外にも素直に聞き入れた事に驚きつつ、大きく深呼吸をして私は目を閉じる。

「…息苦しい」

しかし目を閉じてから30分、眠っていた筈がふと体の怠さで目が覚めてしまい、それから1時間また1時間と起きてしまう癖がついてしまった。何度目が覚めてもお兄ちゃんは傍におらず一度もこの部屋に入って来ていないのが分かる。

「お兄ちゃん…」

傍にいるといつも五月蝿く、会話が止まらず、何かと理由を付けてキスを強請り、過保護にも大概な愛妹弁当。助かってはいるがそんな所に女としての魅力低下と煩わしさを感じていた。きっと兄がいなくても自分で解決出来る事を自分自身に証明したかったのだろうと気付いたのは、うわ言のようにお兄ちゃんの名前を呼び出した時だ。熱の時は情緒が不安定になる物で、自分で追い出したくせにいざ近くにいないと酷い不安感に支配された。なんて自分勝手な妹だろう。これではお兄ちゃんだって彼女が作りたくても作れないではないか。

「夕希、大丈夫か?」
「お兄ちゃん……」

扉の開く音と同時に隙間から顔を覗かせるお兄ちゃんは一体何処から私の信号をキャッチしたのかタイミング良く現れ、不安で一杯の私の気持ちを刈り取っていく。袋片手に恐る恐る近付き布団の前で腰を下ろしたお兄ちゃんは出て行く前より弱くなった私に冷たい手を伸ばし優しく包んでくれた。

「栄養ドリンクとゼリーと、あと薬も買って来た。食欲は?」
「……。」
「どうした、黙ってたら分からないぞ」
「…ごめんなさい」

私の唐突な謝罪は一体何に向けた物なのか、表情からしてお兄ちゃんは全て分かっているようだった。困ったようにクスリと笑い空いている手で頬を摩る兄の優しさが身に染みて、安堵からポロポロと涙が零れてくる。後日まだまだ子供だと馬鹿にされても仕方ない程、私は大人になりきれていなかったのだ。

「うぅ…っぅ」
「おぉおぉ不安になっちゃったか。ごめんな悲しいな、でも泣くと水分飛ぶからさ、飲み物飲む?」

震えるように首を縦に振り、兄の力を借りながら起き上がるとペットボトルに口をつけた。「少しずつ飲むんだぞ、ゲーしちゃうからな」と一体何歳児相手にしているんだと言う助言をするお兄ちゃんをよそに冷たい水分を補給していく。落ち着いて来た感覚と同じく口を離すと飲みかけのペットボトルを取られ代わりに冷えピタを額に押し当てられた。

「冷たい」
「気持ちいい?」
「うん」
「お粥作ってあるけど食べる?」
「食べる」
「分かった、じゃあ持って来るな」
「ま、待って」

お粥を取り分けて来ようとその場を立ったお兄ちゃんを呼び止めただけでなく、咄嗟に腕が伸び兄の服の袖を掴んでしまった。熱に負けた弱々しい力ではすぐに振り払われてしまうのに、お兄ちゃんはそんな事はせず再び腰を下ろすと困ったように眉を八の字にして微笑む。

「今夕希が何言いたいか分かるぞ」
「…なに?」
「お兄ちゃん好きよ〜行かないで〜って」
「そんな事言わないもん」
「ほんとにぃ?じゃーあ」

クスリと笑った兄は徐ろに両手を広げ、ベッドに座る私を包み優しく抱き寄せた。突然の事に肩に力が入り反射的に悪態をつきたくなった口を噤み、お兄ちゃんの呼吸と心音に耳を傾ける。同じクラスの友人にこんな事があったと話せば、きっと変な目で見られてしまう。それくらい私とお兄ちゃんの関係は歪で異端であり、度が過ぎているらしい。けれど、ずっとこの愛情を受けて来た私には、お兄ちゃんのこの暖かさを共有しない事に、少しばかりの優越感を感じているのだ。

「夕希」
「なに?」
「…実は俺、お前に…」
「……。」
「…いや、すまん。何でもない。よしじゃあギューッとした所で、お粥持ってくるから待ってて」
「え?…うん。」

兄の温もりが離れ頭を撫でられると、今度こと立ち上がり部屋の扉に歩いて行く。そして部屋を出る直前その足は止まり、

「夕希、お前は俺のたった一人の、可愛い妹、だからな。」

それだけを告げるとお粥を注ぎにその場を離れて行った。当たり前の事を言ったように見受けられたが、何処か自分に言い聞かせているような声色にも感じて、お兄ちゃんの言いかけたあれは一体何だったのか、まだ微かに残る抱きしめられた胸のドキドキと共に、その疑問はいずれ薄れていく。


  
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