□弐
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 「あ、あ、あ」

 しゃらり、しゃらりと―錫杖の音が聞こえれば

 「か、かかかか、“枯水法師”だ あいつがやってくる… 黄昏を…死の黄昏をその眼に孕んで、優しく、いやらしく、命をあざけ笑うような笑みを携えて、あ、ああああ、アイツが、アイツがやってくる!!!!走馬灯を見せに…アイツはやってくる!!!」

 やがて訪れるのは

 「何だアイツは…なんなんだこれはァァァァ」

 静かなる死、数十年の短い走馬灯―

 「はっはっは 老いて果てろ 小僧共…」

 枯水法師が、やってくる。





―旭― 
第弐話 






 戦場は寂寞と成り果てた。
 銃声は止んだ。止んだというよりももう、とっくの間に途切れていたのだ。敵兵は皆、銃を掴む事が出来なくなったのだ。皆、すぐに死んだというわけではない。急速に余生を過ごさせられて、急速に走馬灯を見せられて、そうして、死んだのだ。
 呻きも、雄叫びも、悲鳴さえ、何も聞こえやしない。先程まで「大正万歳」「いざ行かん」と叫んでいたこちら側の兵士さえもが、落ち着いた表情でいる。朽ち果てているのは敵兵のみ、といったところか。大勢の老兵が横たわり、ある者は首をへし折られ、ある者は頭を潰され… 皺まみれの、骨と皮だけの、枯れ木のような死体が無数に転がっている。どれもこれも一撃で済まされているのは、情けと慈悲の結果であろうか、先を急いだものかは分からない。   
 に対して、こちら側の軍に死傷者はなし。誰一人として戦わずにいたかのようである。牽引車に戻っていく兵は皆気楽に喋りながら、悠長に歩いていった。まるで戦闘等無かったかのようだ。掲げた八条の光条光る、母国の旗にも、汚れ一つ、ほつれ一つ見つからぬ。大帝国大正の、大勝利である。

 「紫明殿、紫明殿 置いて行かれてしまいますぞ」

 一人の兵が踵を返し、背後に向かって声を投げる。
 その視線の先にいたのは軍帽を深く被り、漆黒の外套を身に着けた、長身の佐官。紫明殿―紫明喜代二大佐であった。朽ち果てた老兵で満ちた荒野を見つめ、静かに佇んでいる。死臭を運ぶ風にさえ汚されぬ穏やかさを纏って、ゆっくりと彼が振り返る。戦場に合わぬ優しい笑みを浮かべ、瞳に黄昏のような光を持つ、彼が。その手に、血のこびりついた錫杖を持って。
 
 「うむ 一句詠めそうな気がしたのだ だがまァ、こんなところで是を読むのは…その、何だ…恐ろしいからなア。こんな爺に殺されて、こんな爺に詠われては…死んでも死に切れんだろうに。」
 
 のんびりとそう応えた彼に、数名の兵が笑う。
 
 「かのご高名な枯水法師が、何を仰るか。」
 
 「なアに、紫明殿がお相手となれば、死霊も泣いて逃げていくでしょうな」
 
 豪快に笑い飛ばす兵らに、紫明喜代二はそうかの、と穏やかに笑ってみせる。死と血とが混ざり合う荒野で、談笑の声が広がり、死体を蹂躙する。一方的な虐殺とすら捉えられるこの戦地で。やがて牽引車が唸りを上げたのを見て、兵らは再び足を進めた。
 
 「…すまなんだ だが…老いて死ぬのは当然の事だ 人も獣も花も虫も。 其れを早めてやったまでの事よ」
 
 ぽつり、小さな小さな紫明の弁解は、死体には最早届くことなく、ただただ、強烈に汚れてしまった空気に混ざっていくだけであった。
 
 しゃらり、しゃらりと、もの悲しげな錫杖の音は、濁っている。老いを拒絶し、老いを与える存在となったその罪深さが、骨身に深く染み渡る。紫明はそれに蓋をするかのように、一度も振り返らず、そそくさと歩いて、去る。
  “枯水法師”。それは彼にとって、懺悔、悲しみ、憐れみの為に流す、己の涙をも枯れさせた事に対する、一種の皮肉のようなものなのである。




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