□壱
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 歩めば即ち、その国土は飢え、乾きに徹し、人の目の赤みを帯びている様は、いつ喰わんとされても可笑しくはない。しかしながら人々は嬉々としている。奇奇怪怪に嬉々として、一つの演台に立つ大柄な者を見上げ、笑顔を絶やさぬ。独裁者は彼らに向けて言葉を綴る。其の言葉は威厳を持ち、其の言葉は魅了し、其の言葉は確固たる信念と誇りを失わぬ。民衆は各々を幸栄であると思い、疑わぬ。帝国陸軍総統・阿僧祇京極大佐は美しく分けた前髪を撫で、気にしながら民衆の狂喜の歓声が静まるのを待つ。彼は数日前、軍部で、単独の叛逆を起こした。たった一人で数十名の上官を殺害し、いたぶり、血祭りに上げた。彼は最早人間ではないように思えた。いや、元から人間らしからぬように思われていた。侮蔑の視線は絶えなかったが、今ここで立てば、感じるのは尊敬と畏怖と憧れが混じった視線のみだ。無論、彼がそうした。彼の演説がそうさせた。彼の声は地獄からの声であり、神の声である。民衆にはそう思われている。 だから軍部ではこう呼ばれた。“狂喜演説”であると、彼の声はあらゆる狂喜を掻き立てると、言われ続けた。京極大佐は決してそれに憤怒することはなく、ただただ狐のように、依然として瞼に弧を描き、「面白いことを言う」と、静かに、恐ろしく、愉快そうに笑った。軍部の誰もが、其の笑みを見てしまえば、一度は背筋が凍るものがある。貼付けたような笑顔、何を考えているのか一切合切分からぬ。だから末恐ろしい。
暫くし、どよめきが収まる。彼が拡声器を手に持ったので。
かくして狂喜演説は始まった。彼の凛然とした勇ましい声が、國中に響き渡るのだ。民衆には狂喜のあまり泣き崩れる者も在、跪く者も存、彼の一語一句に感涙を流す者も在った。



「我々ハ、大帝國ノ民ナリ。神ガ國デアルコノ地ヲ、愚カナル侵犯国ガ、不当ナ闘争力ヲ、剣ヲ、槍ヲ、銃ヲ掲ゲ、好キ勝手ニ諸君ラヲ弄バントシテイル事ヲ、我々ハ知ラネバナラナイ。コノ國ヲ、我々ガ愛スコノ大正ヲ守ルタメニ、我々ハ國家ヲアゲテ、戦争ニ向カントスル。アメ公、露助ハ獰猛デ、我々ヲヒトト見ズ、奴隷同然ニ扱ウ悪逆非道ノ國家デアル。奴等ニ捕マルコトハ即チ、捕縛サレ、猿ノヨウニコキヲツカワレ、淫売ノヨウニ姦サレルモ同然ナノダ。我々ハ一國ノ民デアリ、一國ノ誇リヲ持チ、一國ノ旭ヲ浴ビル者デアルノニ。ソノヨウナ不当デ粗悪極マル扱イヲ、受ケテヨカロウカ。否!良イワケガ無イ。我々ハ我々ヘノ尊意ヲ持チ、我々ガ我々タラシメル為ノコノ國ヲ護ルタメニ、戦ウ。民ヨ、刀ヲ持テ。民ヨ、長槍ヲ持テ。民ヨ、策ヲ持テ。今コソ憎キ奴等ニ、我ガ精魂ノ清サヲ、我ガ國ノ誇リヲ知ラシメテヤル時ダ。」



―民衆の間に歓声が沸き上がる―



阿僧祇京極は愉悦に耽った。にたありと口角を上げ、民衆を見下ろして演台を降りる。そして去った。歓声を背に、去っていった。戦争が始まる。大仕事が始まる。彼が愛す國を護るというものが始まる。人々は狂喜の笑顔を浮かべ、依然としてそこに佇み、「幸栄!!!」と叫び、両腕を天へ伸ばす。

「阿僧祇総統、万歳!!!大帝国大正、万歳!!!!!」

広場では絶えずその声は響いている。

この國は其れ程までに、國民に愛され、その男は其れ程までに、國に愛されている。
その愛もいつまで続くのか。彼はまだ知りたくない。底知れぬ愛は刹那であると、彼は解り切ったようでいる。






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