灰色の空

□望んでください
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 本当は、わかっていた。

祥吾が、ずっと家族といたいと望んでいたことを。


否、正確には本当の家族に愛されたがっていたことを。
それでも、叶うことはなく崩壊していった。
それは祥吾の意思に関係なく、修復できないまでに。



 祥吾の言葉から、どうしようもなく湧き出る切望と諦念の色に、苦虫を噛み潰すことしかできなかった。


祥吾は、ずっと家族に愛されたかった。


生まれたその瞬間から嫌われているのだといった彼は、それでも愛されたがっていた。
伏目がちに家族を語る瞳は揺れていたから。
そのことを本人は自覚しているのかいないのか、否、きっと自覚しないようにしていたのだろう。


 愛されたい。

 愛したい。

 愛して欲しい。


 人が持つ三大欲求である、食欲、性欲、睡眠欲の、性欲に部類されるだろう、愛して欲しいという欲求は、人として抗うことのできないもので、それを完璧に諦めることなどできる人間はきっといない。

どれだけ絶望したとしても、それはきっと変わらないだろう。

 偏屈な愛でもいい。
もちろん純粋な愛であったならそれが一番だけれど、それが得られないのなら、と歪に曲がった愛を求めてしまうのは致し方ないのかもしれない。

一度曲がった歪みは完璧に修復されることはない。

身に染み付いたそれを他人が引きはがすことなどできない。


手遅れで、これ以上触れれば完璧に壊れてしまう。そんな脆弱なもので確立されている彼の心は、今まで以上に壊れてしまわないように、そっとしておくのが一番よかったのだろう。



それでも、愛されたいと叫んでいる心を見逃すことはできなかった。


だから強引に、けれど慎重に、ポロポロと毀れる皹の欠片を集めて、パズルのようにそれをはめていった。

触れるたびに、どうしていいのかわからないという顔をする祥吾が、面白くて。

手伝うことを、何でもないようにして、それでも褒めて欲しいなと顔に出ている祥吾が、可愛くて。

頭を撫でるたびに、照れくさそうに下を向く。
初めは、こんなつもりじゃなかった。

容易に優しさを振りまくことは、時として相手を苦しめる。

祥吾の場合はおそらくそれが顕著であったはずだ。


優しくされることの警戒と願望。
きっと彼の中で何度も問答を繰り返していたに違いない。

その問答の中で、こちらの手を取ることを選んだのは、誰かに傍にいて欲しい、愛して欲しい、求めて欲しいという欲求。

そして、何より家族との関係の改善と崩壊。

どちらに転んでもおそらく祥吾は受け入れるのだろう。
けれど現実は残酷なもので、どちらか、という選択肢はとうの昔に消え去っていた。

一方しか選ぶことができない。

俺と出会って、手を取った瞬間から、用意されていたのは、崩壊という選択肢のみ。


 もちろん俺も、関係を立て直すことが出来たのならどれだけ良かっただろうと思っていた。
だから、幼馴染には、里親の孤児院のことや養子縁組ことを。

そしてもう一つ、パソコンでやり取りをし、親戚にあたる人物に依頼した。


 それは、祥吾の親のことだった。
祥吾の言っていることを疑っているわけではないが、一方だけの見解だけではこの話は進められなかったからだ。

祥吾は、父のことを外面だけはいい人間だったといっていた。まさにその通りらしい。
それなりに景気のいい会社の課長を務め、人当たりのいい温厚な人間である。
そう綴られた文書。

けれど、もう一つ。もはや個人情報もへったくれもないが、成人するまでが書かれたものと。
今は、温厚な人間を装っていたとしても、若気の至りがその本性をさらけ出すこともある。
案の定、祥吾の父は幼い頃、何度も過ちを犯し、暴力沙汰を起していた。


そしてそれは今も。最後の1枚に書かれていた横領の文字。呆れてものも言えない。
少年院に入るギリギリの所業を行い、祥吾の母とはその中でであったらしい。

母の方は、別段父のように犯罪ギリギリを行っていただとかそういうのではなく、一般的な女性だった。

育児放棄をしているのはおそらく、息子へ暴力を振るう夫への恐怖心か。それとも、ただ髪色が気に入らなかっただけか。


 細かく過去のことを書かれた文字の羅列を見て、息を吐く。
昔、暴力沙汰を起していた人間が、更生しおとなしくなる確率は五分五分だ。
その人間の本質によって決まる。
そういう性である人間はいくら諭されたとしても変わらないだろう。

それは等しくすべての人間に当てはまることだ。


己の中に巣を食う、抑えられない破壊衝動の獣を飼いならす、これを如何にうまくやってのけるかで、その人間が決まる。

うまく飼いならせなかったものは道を外れ、うまく飼いならせたものは善を掲げる。

どうしようもない破壊衝動は、うまく飼いならすことのできる人間でも沸いてくるもので、それを趣味や運動で発散するのが一番の策だ。


けれど、うまく飼いならせなかったものは?

もしくは、中途半端に飼いならしていたものは?


楽しい、嬉しい、面白い、喜の感情で発散することが出来ない人間は、己の赴くがままに破壊する。

それは物であったり、今回の祥吾のように、人にぶつけられるのだ。


これほどまでに理不尽な話はないだろう。


うまく飼いならせなかったものの獣は、善を食らい地に堕とす。堕とされた善は地を這い、飼いならしていた獣の綱を放し破壊を始める。負の連鎖と言うべきそれは、誰にでも起こりうることだ。


手放された獣の中で育った祥吾もまた、獣の手綱を握れずにいる。


握ろうともがくたびに、手のひらは擦れ、離れていく。

本当ならば、祥吾は飼いならすのが得意な人間になったはずだ。けれど、その飼いならし方を教えてくれる人間が、祥吾の前で飼いならすことをしなかった。己の欲のままに利用する。

そんな中で幼少期を過ごした彼は、己で飼いならすことはおろか、飼いならし方を請うことすらできなくなっていったのだろう。


獣に食われ歪んでしまった心と、微かに残る善の心が、押しつぶし合っている。
もちろんこのままいけば善に勝ち目などなかっただろう。


だから、もう手を放せなかった。

彼の望む家族は手に入れられない。

彼の望む家族の愛は与えられない。

けれど、もう一度手綱の握り方を、地から這いあがる術を、己の手でつかみ取ってほしかった。


例えそれで、彼の望んだ結果にならなかったとしても。



彼を悲しませる結果になったとしても。










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