文学者達ノ恋模様

□寒九の雨
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窓硝子を雨粒が伝う。それは、外の景色を歪ませて見せた。
 一月の、冷たい雨。激しく降ることはなかった。さぁさぁと流れる、川のせせらぎのようであった。
 その雨の物悲しさにつられてか、いつもは騒がしい探偵社も、今日ばかりは落ち着いていた。
「あれ……太宰さんがいない……始末書……」
 敦が溜め息を付きながら、太宰に渡したときと同じ状態で置かれている書類を見る。
「彼なら、今日は帰り遅いと思うよ」
「え、何でですか、乱歩さん」
「さぁね。僕は興味ない」
「はぁ……そうですか」
 観念したように、もう一度深い溜め息を付くと、敦は積まれた書類を手に取った。
 棒付きキャンディ口の中で転がしていた乱歩は、濡れそぼった街並みを、眺める。
「……どうせ、花でも置きに行ったんだろ」
「え?何か言いましたか」
「幻聴だよ、病院にいってくれば?」
 ええ……と戸惑いを隠せずにおろおろする敦を、横目に見てから、乱歩は再び窓の向こうに目をやった。
 朝早く探偵社を出ていった時の、喪服姿の太宰を思い出す。何時ものヘラヘラとした表情ではなく、何処か憂いを帯びたそれ。

(だから、あの時止めたんだよ、君……)



 名前のない墓標が、静かにたたずんでいた。そこに姿を現した、一人の青年。
 太宰治は、花束を持って、名前のない、一つの墓標へ近付いていった。
「やあ、久し振りだね」
 そう言って、花束を供える。
 濡れて顔に張り付いた髪をそのままに、彼は、もう何時だったか分からない日のことを、思い出していた。
 

「織田作、どうしたの、浮かない顔して」
「……猫が」
「猫?」
「そこの、看板の近くに」
 織田作の視線の先。成程、鈴付きの首輪をした猫が、看板の下で震えていた。足を怪我しているようだった。
 怪我して家に帰られなくなった三毛猫。
「連れて帰るの?」
「いや、飼い主が探しているかもしれない。もし明日、まだ居たら」
「手当てをして、飼い主を探す?」
「そうだな。そうしよう」
「優しいねぇ」
 織田作は何も言わなかった。
 太宰は、ニコニコとしたまま、彼が歩き出すのを、じっと待っていた。

 次の日は、雨だった。
 太宰は、姿の見当たらない織田作を探しに、街をふらふらと歩いていた。何となく、嫌な予感がした。
 その勘は、外れなかった。
 昨日の看板の近くの道路脇。斑に血が散らばっていた。飛び散った血は雨にうたれ、滲み、排水溝の中に吸い込まれていく。
 傘とキャットフードが近くに投げ出されていた。彼がしゃがんで、頭を撫でているのは、死んだ猫。
 昨日の、三毛猫。
 車に弾かれたのか、綺麗だった毛並みを赤い斑点で汚していた。
「織田作……」
 彼の表情は、髪で隠れて見えなかった。太宰は、濡れた背中に傘を傾けた。もう、意味のないくらいに濡れてはいたが。
 顔を上げずに、織田作は呟いた。
「墓をつくってやりたいと思うのは、人間の自己満足だろうか」
「…………行こうか」
「先に帰っていてくれ。後から行く」
「織田作」
「頼む」
「……分かったよ」
 太宰は小さく溜め息を付き、織田作に背を向けた。途中で振り返ると、彼と、猫の姿は何処にもなかった。
 次の日になるまで、彼は帰ってこなかった。


「ねぇ織田作、あの三毛猫、最初の日に拾って帰れば善かった訳でもないと思うんだ」
 答えの帰ってこない墓標に話しかける。
 酷いクマをこしらえて帰ってきた、その顔を思い出しながら。
「勿論、あの日死んでしまったのが三毛猫の為だとは思わないけれど」
 何が正しかったかなんて、誰にも分からない。善悪では到底、測りきれないものが、この世には多すぎる。
 それに
「善いも悪いも、人間の心持ち次第だからねぇ」

 嗚呼、寒九の雨が降る。
 死んだ人の時は、もう錆び付いて動かない。
 その死が、本当に不幸だったのかなんて、当事者にしか分からない。
 だからせめて、彼の行いが悲しく愚かなものだったと言われないように、

「私が頑張って死ぬしかないよねぇ、織田作?」
 

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