アヤカシ恋草紙

□カミノニエ1
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屋上へは中央階段からしか行けない。幸い、下足箱には行けないが、階段は見えるところにある。

とにかく上から学校の全貌を見るつもりだった。

だが、階段を上がろうとした足は階段を踏みしめることは出来なかった。

「わっ?!」

ぐにゃりと床が歪む。
慌てて足を上げると、ぬとぬとした何かが足にまとわりついていた。
階段全てから黒いシミがじわじわと溢れてきている。

「うっ、ぐ」

頭が割れるように痛い。
こんな時であるが、葵はあまりの痛さと酷い吐き気にその場でうずくまるしかなかった。
体が氷のように冷たい。
気付けば葵はガチガチと歯を鳴らして震えていた。

(冷たい、死ぬのか俺……)

黒いネバネバはうずくまった葵の体を容赦なく浸食して行く。
もはや、辺りは暗闇に包まれていた。

息をするのも苦しい。
葵は心臓を直接握りつぶされているような感覚に支配された。

暗くて辛くて惨めな気持ちに襲われる。世界の全てから拒絶されたかのような錯覚に陥る。楽しいことも嬉しいことも、何もかも思い出せなくなった。

絶望。それが、あるだけだった。

(嫌だ、怖い…やだ……)

立ってここから逃げても、無駄な事に思えた。
そもそも、そんな気力ももうなかった。
怖がるのも、意識を保つのも、呼吸をするのさえ、もう何もかも諦めれば楽になれるのではないだろうか。

ぎゅっと膝を抱えて小さくなった時、頬だけが暖かい事に気がついた。

ふと声が脳裏をよぎる。

『助けが必要な時は、呼んで。必ず行くから』

呼べと言った。
必ず行くと。

不思議と無駄だとは思わなかった。

葵は縋るように、その名を口にした。

「泰牙…ッ」

果たして声になったのか、分からないほどのか細い声だった。

けれどもそう叫び終えるか終えないかの時に、もう葵は暖かい何かに包み込まれていた。

それは力強く、葵を抱きしめている。
葵が顔を上げると、そこには名前の主がいた。

「ほんとに、来た…」
「行くと言ったろ」

まるで逃げるように泰牙を中心にサーッと黒い何かは退いて行く。
泰牙が触れていると、葵の体の震えは徐々におさまっていった。まるで湯たんぽのような優しい暖かさに触れて、冷たい体が少しずつ体温を取り戻して行くのが分かる。腕に力が戻ると、なりふり構わず、葵は泰牙にしがみついた。

「っこわ、かった…黒いのが…あれ、やだ、こわい…俺っ今、息をっ…」

さっきまで自分が考えていた事を急に理解して、葵は愕然とした。
呼吸をやめる。
それは死でしかない。
どうして、そんな事を思えたのか今となっては分からなかった。

泰牙はしがみ付いている葵の腕をゆっくりと剥がして、安心させるようにゆっくりと落ち着いた声で語りかけた。

「もう、大丈夫だ。お前を襲う災厄は俺が打ち払おう。でも、瘴気に触ったかもしれない…治療をしないといけないが、とりあえずここを抜ける。抱えて運ぶが、それでもいいな?」

こくこくと何度も葵は頷いた。

泰牙は葵をひょいと抱えて、そこを駆け出す。
人、一人抱えているとは思えないほど軽々と廊下を駆け抜けて行った。

黒いネバネバはまるで名残惜しそうにこちらを追ってくるようだったが、もう追いついてはこれなかった。
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